省略の美学とその周辺
2007年 07月 27日
以下、千年氏の文章。
『群像』7月号で、作家の筒井康隆(1934年生)と、筒井に影響を受けたという東浩紀(1971年生。若手哲学者・批評家)が対談している。題して「キャラクター小説とポストモダン」。そこに、思いがけなくも筒井の俳論がある。以下はその抜粋。
筒井:僕がいいたかったのはね、日本特有の現象として、最初に自然主義リアリズムが入ってきたけど、何ページにも及ぶ風景描写はできなかった。また、そういうのは日本人には向かなかった。(略)何でできていないかというと、くだくだしいから。つまり、日本の古来の文芸というのは、和歌、俳句、川柳であって、省略の文芸なんですよ。だから、例えば「古池や蛙とびこむ水の音」で、古池ってどんな池だとは書かない。アオミドロが浮いているのか、…雨ガエルか赤ガエルか、…そんなことはもういいと。それはもうわかっているんだというような芸術なんですね。だから、あらゆる面で省略ということがされてきた。それが今のアニメ・漫画、そういうものが文芸化されていくもとになっているんじゃないか。つまりそれ記号でしょう。文章じゃなくて記号になってきている。
東:なるほど、それはそうですね。省略の美学があるんですね。(略)…省略の美学ということとは別に、コンテクストが共有されているから発達した、という経済原理のようなものもあると思います。つまり教養ですね。教養が共有されていれば、くだくだしい描写なんかしなくても十分に伝わる。そういう相互の信頼が、作家と読者の間で省略の美学を発達させていく。だとすれば、その過程はやはり普遍的なのかもしれない。ライトノベルの省略はアニメやゲームを参照して作られていますが…。(下略)
ちょっとおもしろかったので書いてみました。ところで、芭蕉会議の若い方にお聞きしたいのですが、キャラクター小説、ライトノベルって何でしょうか。おもしろい作品があったら教えて下さい。
以上、千年氏の文章。
筒井・東両氏には申し訳ないことながら、『群像』を読んでいないから、正確を期すことはできないが、両氏の言い分はおおよそ以下のようなものか。
筒井:現在、アニメや漫画が文芸化している現象の根源には、日本の文学伝統が和歌・俳句・川柳などの短詩型であるという事実がある。短詩型文学は「記号化された世界」である。その世界に馴染んでいる日本人には、長い風景描写ができない。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」という句を例にすれば、古池がどんな池かという説明をしない。「古池」はすでに了解事項であるとして説明を省略する。これは言葉の記号化である。しかし文章とはまとまった思想を説明する器であり、記号で表現することはむずかしい。明治時代に西欧から移入された自然主義文学が、日本に定着しなかった理由も、この「記号化された世界」という文学伝統のせいである。
東:作家と読者の間に「コンテクストの共有」があって、つまり教養が共有されている結果、表現の経済学が働いて省略が起こる。ライトノベルの場合の省略には「アニメやゲームの世界」の共有がある。
以下、海紅から多少の感想。
散文が未発達な日本文学というふうに読み替えれば、筒井発言はよくわかる。たしかに、わたしの読んできた古典は散文詩のように、隙間だらけの文章が多い。しかし、西欧と比較してどうかとなれば、わたしの手には負えない。なお、長い風景描写ができないという筒井発言が、その説明に古池の句を引用するのが適切かどうか。「古池」が何かについてはいまだに議論があり、その意味で少しも「了解事項」ではないのだ。また、日本に西欧と同じ自然主義が定着しなかった理由を、記号化された日本文学伝統のせいにするのも強引な気がする。わたしは自然観の相違が、この思潮が定着しなかった理由と考えてきた。つまりこの国はアニミズム(ヤオヨロズの神)の国だから。仏教もそれで定着しなかった。アニミズムの島の人たちが、節分の豆まきをし、一方でバレンタインチョコを贈り、キリスト教会で結婚して、仏教で死んでゆく。長いこと、こういう感性が不可解きわまりなかったが、今は〈何でもあり〉のこの国柄が気に入っている。
なお「キャラクター小説、ライトノベル」については機会を改める。千年氏同様未知の世界ゆえ。