課題◆俳諧の文学性 ― 千年氏へ
2008年 02月 07日
(一) 一句一句の独自のおもしろさ
(二) 前句と付句との間に生まれる付味(つけあじ)のおもしろさ
(三) 三句の転じのおもしろさ
(四) 一巻全体の構成とその変化・調和のおもしろさ
ボクは明雅先生の著書の真面目な読者を自認する者であるが、この四点のなかで、どうしても胃の腑に落ちないのは第四点である。一巻の変化と調和というと、どうしても十代に魅了されつづけた西欧の詩を思い浮かべて、連句にはそれが欠如していると思ってしまう。それで、この一点を堂々とゼミの諸君に解説することが憚られる。連句の魅力を未来に創造するためにはこのあたりの問題を解決したいと長年思っている。一案だが、連句を巻く際に、連衆の心をひとつにするコンセプトを提示するというのは邪道だろうか。こういうことを考える際に、追善・法楽・見舞い・祝儀などのことばが打開のヒントを与えてはくれないだろうか。

もう一つ、池澤夏樹が中沢新一との対談で(「新潮」最新号)、フランス人に「・・日本に哲学がないのは、二十四節季・七十二候があるから。桜の蕾の時と花が咲いた時と、散る時は日本人には違うんだ」(略して書いてます)というと、不思議にフランス人は納得してた・・という経験を書いています。この二十四節季・七十二候が連句の構成とその変化等におもしろさを与えているんだというおもしろさの共有・・・
打開のヒントは、もう一度これらのおもしろさを再発見(連句という文芸の、簡単に分ってたまるか的おもしろさを多くの人がはっきりと自覚すべし)し、実践(「解体ショー」でもいいが)していくことではないでしょうか。今日はとりあえずこれで失礼します。

時代のおもしろさを連句の器に拾う、掬う、そんなコンセプトも千変、万化の連句なかであっていい、というかそのために連句を集まって巻くのではないか。

「劇詩」・・演劇的、映画的感覚で連句を巻く・・連句を付け進めていくための方法論であると、私はまず思いました。
北村透谷に「劇詩の前途如何」という明治26年に書いた文章があり、また「今の世の俳諧士(ママ)は憐れむべきものなるかな。・・・」という其角堂永機を評した短文があることを今日知りました。
重層的な可能性を孕む、相手業のこの文芸・・「心がひとつでなく、座に臨む気概がひとつであってほしい」。先生に甘えて勝手なことを書かせてもらっています。


私は連句の世界に入り、まず感動したのは、東先生の(1)~(3)のおもしろさではなく、まず(4)の魅力に惹かれて入った(俳った)。
その言葉にならない魅力を連衆とともに、自分自身の言葉で、力で、感性で、認識で確かめようとするところから、連句の未来は始まると思います。以上。

「・・個性的な主体の統一的把握を生命とする近代文芸が実作の場から連句を追放するようになったのも、またきわめて自然な成り行きであったといわねばなるまい。連句一巻に内面的な構成原理を認めがたいことは上述したが、観点を変えて一巻の内容を分析すれば、また別の興味があろう。前述したように良基は『筑波問答』につぎのように説いている。
連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。
自然や人生の変転してやまぬ無常の相を連歌一巻の付け運びの中に認めようとするのが良基であり、その「飛花落葉の観念」はそのまま芭蕉の連句観にも継承されていると考えてよかろう。・・」