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課題◆俳諧の文学性 ― 千年氏へ

 東明雅先生の名著『連句入門』(中公新書)の「第一章 俳諧と芭蕉」に「俳諧の文学的独自性」という一節がある。そこで正岡子規の俳諧に対する基礎知識の欠如を指摘しつつ、先生は俳諧の文学性として次の四点をあげている。

 (一) 一句一句の独自のおもしろさ
 (二) 前句と付句との間に生まれる付味(つけあじ)のおもしろさ
 (三) 三句の転じのおもしろさ
 (四) 一巻全体の構成とその変化・調和のおもしろさ

 ボクは明雅先生の著書の真面目な読者を自認する者であるが、この四点のなかで、どうしても胃の腑に落ちないのは第四点である。一巻の変化と調和というと、どうしても十代に魅了されつづけた西欧の詩を思い浮かべて、連句にはそれが欠如していると思ってしまう。それで、この一点を堂々とゼミの諸君に解説することが憚られる。連句の魅力を未来に創造するためにはこのあたりの問題を解決したいと長年思っている。一案だが、連句を巻く際に、連衆の心をひとつにするコンセプトを提示するというのは邪道だろうか。こういうことを考える際に、追善・法楽・見舞い・祝儀などのことばが打開のヒントを与えてはくれないだろうか。

 
Commented by 市川千年 at 2008-02-12 23:52 x
連句全体のおもしろさは、東先生は「序破急」で簡略に述べられていますが、そのおもしろさを追求しようという風狂が集まらないとどうしようもない、といってしまえばそれまでか・・・例えば、北村太郎の詩に「固有名詞からは死んだら逃れられる・・地名人名・・」みたいな詩の一節があったのですが、表は地名人名(生のキャラのたつ言葉)は控えようよ、という創造のカオスの原点から・・・こう理屈でいってもダメか。
もう一つ、池澤夏樹が中沢新一との対談で(「新潮」最新号)、フランス人に「・・日本に哲学がないのは、二十四節季・七十二候があるから。桜の蕾の時と花が咲いた時と、散る時は日本人には違うんだ」(略して書いてます)というと、不思議にフランス人は納得してた・・という経験を書いています。この二十四節季・七十二候が連句の構成とその変化等におもしろさを与えているんだというおもしろさの共有・・・
打開のヒントは、もう一度これらのおもしろさを再発見(連句という文芸の、簡単に分ってたまるか的おもしろさを多くの人がはっきりと自覚すべし)し、実践(「解体ショー」でもいいが)していくことではないでしょうか。今日はとりあえずこれで失礼します。
Commented by 市川千年 at 2008-02-13 22:05 x
角川「俳句」昭和52年11月号の特集は「俳句と俳諧」。飴山実が「初しぐれ」と題して書いた文章の後半、「初しぐれの「初」の一字の働きがまた新鮮である。江戸期に入ると、庶民の生活行動が急ににぎやかになったことを反映して、「初」を冠した言葉が非常にふえてくる。生活のいぶきがきこえる大変いきいきしたことばばかりである。・・・・初荷、・・初鰹、初瓜、初芝居、などには時代の趣向が溢れんばかりである。「初」は江戸時代の明るさであり、思想であった・・」とあります。
時代のおもしろさを連句の器に拾う、掬う、そんなコンセプトも千変、万化の連句なかであっていい、というかそのために連句を集まって巻くのではないか。
Commented by 市川千年 at 2008-02-14 23:43 x
思潮社「現代詩手帖」2000年(平成12年)6月号の特集「詩から連句へ」に、詩人、連句人の鈴木獏さんが「詩と連句のクロスオーヴァー」の一文をよせています。その中で、「・・連句の作品構成には、舞楽や能楽などの演出理論、ドラマツルギー通底する「序破急」という考え方が適用される。・・・・・連句は、近代の抒情詩よりも、むしろ劇詩に近いと言えるかもえない。・・」と述べています。
「劇詩」・・演劇的、映画的感覚で連句を巻く・・連句を付け進めていくための方法論であると、私はまず思いました。
北村透谷に「劇詩の前途如何」という明治26年に書いた文章があり、また「今の世の俳諧士(ママ)は憐れむべきものなるかな。・・・」という其角堂永機を評した短文があることを今日知りました。
重層的な可能性を孕む、相手業のこの文芸・・「心がひとつでなく、座に臨む気概がひとつであってほしい」。先生に甘えて勝手なことを書かせてもらっています。
Commented by 市川千年 at 2008-02-16 21:42 x
「・・ちゃん、遊ぼう」「遊ぼう」・・幼少年期、自然や街の空間を使って、心をひとつにして、何かに遊び呆ける。神社の境内の三角ベースでの野球だったら、野球というゲームの一員となって、プレイする、ボールを打つ、受ける、追う・・・・・「連句でも巻きますか」と心をひとつにして、楽しむ(少々苦しむ)・・紙と鉛筆と歳時記があれば、この連句という器をおもしろいものにすることができる。「連句の魅力を未来に創造していく」ための土台に、例えば芭蕉会議がある。・・スポーツづくし、妖怪づくし・・・何とかづくしで連句を楽しんでみるのも一興かと思います。
Commented by 市川千年 at 2008-02-19 20:57 x
半歌仙でも歌仙でも、連句作品一巻が、連衆の言の葉があるいっときにふるい落とされた世界の模様、、ある一瞬の宇宙の万華鏡のように見えたら、感じてもらえたら・・・そこから始まる。
私は連句の世界に入り、まず感動したのは、東先生の(1)~(3)のおもしろさではなく、まず(4)の魅力に惹かれて入った(俳った)。
その言葉にならない魅力を連衆とともに、自分自身の言葉で、力で、感性で、認識で確かめようとするところから、連句の未来は始まると思います。以上。
Commented by 市川千年 at 2008-02-20 05:23 x
永遠の課題を頂き、昨年自分のブログに書いた栗山理一の文章を思い出しました。先生に教えていただいた「芭蕉の芸術観」からの一節です。
「・・個性的な主体の統一的把握を生命とする近代文芸が実作の場から連句を追放するようになったのも、またきわめて自然な成り行きであったといわねばなるまい。連句一巻に内面的な構成原理を認めがたいことは上述したが、観点を変えて一巻の内容を分析すれば、また別の興味があろう。前述したように良基は『筑波問答』につぎのように説いている。
 連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。

 自然や人生の変転してやまぬ無常の相を連歌一巻の付け運びの中に認めようとするのが良基であり、その「飛花落葉の観念」はそのまま芭蕉の連句観にも継承されていると考えてよかろう。・・」
by bashomeeting | 2008-02-07 10:10 | Comments(6)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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