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第3回 芭蕉会議の集い(2)

 肉親や郷里、母校や自国を語ることが苦手である。手前味噌になるのが怖いのである。それで、安吾についてふれることはなかったが、芭蕉会議で近代俳句に関する話題が盛んなので、「第3回 芭蕉会議の集い」を終えた今を好機と見て、安吾の「第二芸術論について」を紹介する。異論を聞きたいからである。

   第二芸術論について   坂口安吾

 近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかということだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでいないから、俳句や短歌が第二芸術だという意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまえの考え方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の作品とかいう出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいう、便利な、いかにも有りそうな言葉のようだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のように思われる。
 むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまっているじゃないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。
 俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。外国にも、バラッドもあればソネットもある。二行詩も三行詩も十二行詩もある。
 然し日本の俳句や短歌のあり方が、詩としてあるのじゃなく俳句として短歌として独立に存し、俳句だけをつくる俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、そして俳人や歌人というものが、俳人や歌人であって詩人でないから奇妙なのである。
 外国にも二行詩三行詩はあるが、二行詩専門の詩人などという変り者は先ずない。変り者はどこにもいるから、二行詩しか作らないという変り者が現れても不思議じゃないが、自分の詩情は二行詩の形式が発想し易いからというだけのことで、二行詩は二行の詩であるということで、他の形式の詩と変っているだけ、そのほかに特別のものの在る筈(はず)はない。
 俳句は十七文字の詩、短歌は三十一文字の詩、それ以外に何があるのか。
 日本は古来、すぐ形式、型というものを固定化して、型の中で空虚な遊びを弄(もてあそ)ぶ。
 然し流祖は決してそんな窮屈なことを考えておらず、芭蕉は十七文字の詩、啄木は三十一文字三行の詩、ただ本来の詩人で、自分には十七文字や三十一文字の詩型が発想し易く構成し易いからというだけの謙遜な、自由なものであったにすぎない。
 けれども一般の俳人とか歌人となるとそうじゃなくて、十七字や三十一字の型を知るだけで詩を知らない、本来の詩魂をもたない。
 俳句も短歌も芸術の一形式にきまっているけれども、先ず殆(ほとん)ど全部にちかい俳人や歌人の先生の方が、俳人や歌人であるが、詩人ではない。つまり、芸術家ではないだけのことなのである。
 然し又、自由詩をつくる人々は自由詩だけが本当の詩で、韻のある詩や、十七字、三十一字の詩の形式はニセモノの詩であるように考えがちだけれども、人間世界に本当の自由などの在るはずはないので、あらゆる自由を許されてみると、人間本来の不自由さに気づくべきもの、だから自由詩、散文詩が自由のつもりでも、実は自分の発想法とか、自由の名に於て、自分流の限定、限界、なれあい、があることを忘れてはならない。
 だから、バラッドやソネットをつくってみようとか、俳句や短歌もつくってみたいとか、時には与えられた限定の中で情意をつくす、そのことに不埒(ふらち)のあるべき筈はない。
 十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云えば文字にしかよらない散文、小説でも、限定ということに変りはないかも知れないではないか。
 芥川龍之介も俳句をつくってよろしい。三好達治も短歌も俳句もつくっている。散文詩もつくっている。ボードレエルも韻のある詩も散文詩もつくっている。問題はただ詩魂、詩の本質を解すればよろしい。
 主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言うに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいいではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などというものによって限定さるべき性質のものではないのである。
 俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。ただ、俳句の極意書や短歌の奥義秘伝書に通じているが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であっても、詩人でない、芸術家でないというだけの話なのである。

【附記】「第二芸術論について」は『詩学』二巻四号(昭23・12)所載。『詩学』は『ゆうとぴあ』(昭21・9~22・2、全6冊)の改題誌。本文は、ちくま文庫『坂口安吾全集15』(平3・6)によった。当文庫の解題によれば、安吾生前の刊本には収められていないという。
by bashomeeting | 2008-06-23 15:03 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(本名は快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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