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第三は、たけ高きを本とせり(『埋木』)

   狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉   芭蕉
    たそやとばしるかさの山茶花       野水
   有明の主水に酒屋つくらせて        荷兮

 時季でいえば〈木枯〉にはまだ早過ぎるのだが、忘れぬうちに書く。
 千年氏が芭蕉会議の掲示板に、七部集『冬の日』の「狂句こがらしの」歌仙の第三にある「酒屋」について一説を紹介し、それが掲載されている連句誌『れぎおん』(2002年春号)のコピーを送ってくれた。杉山壽子「『冬の日』第一歌仙〈第三句目〉名古屋的解釈の一考察」である。
 それは、〈第三の「酒屋」が「サカヤ」ではなく「シュウヤ」と読むべきという意見。これは敷地内にこしらえた、お酒を飲めるオープンカフェ、茶席の待合ではないが、そんな感じの、酒樽をすえて、歓談できる自家製宴会場。著者が祖父から聞いた話を基にしている〉(千年談)。
 私はこの「シュウヤ」説を面白いと思う。こうしたホームバーのような、いや祭の屋台のような、バーベキュー・パーティのようなことが尾張で、いや尾張でなくとも、江戸期までにおこなわれていて(おこなわれていないわけはない)、しかも「シュウヤ」の日本語用例が確認できるとなおよい。
 私は思っていた、いくら第三が転じの場と言えど、暉峻康隆説の通り、当時幕府は酒株制度を敷いているから、造り酒屋などは論外である(『芭蕉の俳諧』)。また、いわゆる酒を売る店や居酒屋を意味するという定説も、大げさで、不自然であると。一方で、杉山壽子稿には大いに納得したが、、野水の邸宅がもとは作事(建築)の棟梁(大工頭)中井大和宅で、その子孫に中井主水という棟梁がいて、芭蕉(竹斎もどき)を歓待する目的で、その主水(もんど)に酒屋(シュウヤ)を作らせたいう深読みは捨ててよい。当座の情況と、言葉の世界である付合をこき混ぜてしまっては混乱をまねくからである。
 虚に遊ぶ俳諧は、言うまでもなく転じるところに醍醐味がある。第三の場合は発句(打越)からの転じをまず愉しまねばなるまい。つまり芭蕉(竹斎)を引きずって第三を読むのはよろしくない。むしろ、前句(脇句)に漂う風雅人の高貴(気品)を付所(つけどころ)として、発句のうらぶれた竹斎像から離れ、脇句の気品にみあう「有明の主水」なる宮中ゆかりの人物を創出したとみるのが穏当ではなかろうか。つまり第三は発句の竹斎ごとき客でなく、山茶花の散りかかる旅笠の人を身分のある客と読み替えたのであろう。例えば、『埋木』に「第三は脇の句によく付候よりも、たけ高きを本とせり。句がらいやしき第三は本意ならず候。又云、第三は相伴の人のごとし。たけ高く優なるを、こひねがふ事に候」とあるが、発句と第三は格調の高さにおいて等しく、その世界は異なるものであるはずだ。
 ただし、とりあえず覗いた『日本国語大辞典』には「シュヤ」「シュウヤ」のいずれも立項されていない。
by bashomeeting | 2008-07-23 14:10 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(本名は快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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