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最近和洋詩歌考現学8 ―教材◆思えば出るということ

 阪神淡路大震災という名は、平成七年(1995)一月十七日五時四十六分に起きた地震に与えられた名称である。M7.2、死者六千四百三十二人、およそ五十一万棟の住宅が全半壊、一部損壊の悲劇を蒙った。一年後の毎日新聞(平成8年1月15日朝刊)は追悼のページを組んで、この地震で亡くなった父に宛てたM.Mという名の幼児の手紙を掲載した。以後、文芸創作の講義では、必ずこの手紙にふれてきた。その意図は、心という器には〈非在という実在〉の住処があるということをわかってもらうこと。それは〈思う〉という働きを通して生まれるということを伝えたいからであった。長く教材とさせていただいたことに感謝しつつその全文を掲載し、例によって受講者の感想の一部を添えて鎮魂とする。
 昨夜、また東北を大きな地震が襲った。

     パパへ

  パパ、てんごくでなにしているの。
  マーちゃんをおそらからみてるの。
  パパは、じしんでてんごくにいっちゃったから、
  もう、マーちゃんのおうちには、こないの。
  じしんのまえ、
  パパとおえかきをしたり、
  おうたをうたったね。
  どうぶつえんにも、ゆうえんちにもいったね。
  パパのくるまでおかいものにもいったね。
  パパは、マーちゃんがビールいれるとおいしそうにのんだね。
  また、おうちにきてくれたら、
  ほいくえんのおはなしもしてあげるよ。
  おいしいビールのませてあげるよ。
  てんごくに、でんしゃないのかな。
  マーちゃんが、おおきくなったら、
  パパのところにいけるの。
  それまでマーちゃんのことみててね。
  パパ、もういちどマーちゃんをだっこしてね。

******* 受講生の感想から *******

先生の〈死なれてはじめて生きる〉という言葉に共感、深く考えさせられるものがあった(T.T)/「パパへ」の素直で真っ直ぐな点に心打たれた。自分の詩にそれはないから、とてもまぶしい、うらやましい(M.U)/描いている時にツマラナイと思ったら、その時点で次の言葉の色は変わる気がする。純粋な詩は「叫(シヤウト)び」だと思った。飾りの多い詩よりずっと心を打つ。年をとるにつれ、感受性は衰える気がするけれど、人間らしくありたいと思った(S.M)/「パパへ」には過去・現在・未来とひろい時空が展開している。対する私の詩はある瞬間に止まっている。僕の詩は写真、「パパへ」はビデオである。私の「死」は消滅、「パパへ」のそれは再会への確信が前提にある。マーちゃんの中に父親が生き続けるに違いない(I.K)/マーちゃんの文章は詩というよりも手紙。いや詩とは手紙なのかもしれない。それでパパの存在が見えるのだ(N.A)/純粋ということ、その切実さや必死なところが、まるでわたしと違う(Y.A)/「パパへ」の語尾が人を感動させる。つまり問いかけるというカタチ。これは詩歌表現の効果という視点で重要(K.H)/成長するにつれて、できることと、できないことが見えてくる。「マーちゃん」はまだ見えていない。そのあわれが人の心を打ってくる(Y.M)
by bashomeeting | 2008-07-24 11:34 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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