最近和洋詩歌考現学8 ―教材◆思えば出るということ
2008年 07月 24日
昨夜、また東北を大きな地震が襲った。
パパへ
パパ、てんごくでなにしているの。
マーちゃんをおそらからみてるの。
パパは、じしんでてんごくにいっちゃったから、
もう、マーちゃんのおうちには、こないの。
じしんのまえ、
パパとおえかきをしたり、
おうたをうたったね。
どうぶつえんにも、ゆうえんちにもいったね。
パパのくるまでおかいものにもいったね。
パパは、マーちゃんがビールいれるとおいしそうにのんだね。
また、おうちにきてくれたら、
ほいくえんのおはなしもしてあげるよ。
おいしいビールのませてあげるよ。
てんごくに、でんしゃないのかな。
マーちゃんが、おおきくなったら、
パパのところにいけるの。
それまでマーちゃんのことみててね。
パパ、もういちどマーちゃんをだっこしてね。
******* 受講生の感想から *******
先生の〈死なれてはじめて生きる〉という言葉に共感、深く考えさせられるものがあった(T.T)/「パパへ」の素直で真っ直ぐな点に心打たれた。自分の詩にそれはないから、とてもまぶしい、うらやましい(M.U)/描いている時にツマラナイと思ったら、その時点で次の言葉の色は変わる気がする。純粋な詩は「叫(シヤウト)び」だと思った。飾りの多い詩よりずっと心を打つ。年をとるにつれ、感受性は衰える気がするけれど、人間らしくありたいと思った(S.M)/「パパへ」には過去・現在・未来とひろい時空が展開している。対する私の詩はある瞬間に止まっている。僕の詩は写真、「パパへ」はビデオである。私の「死」は消滅、「パパへ」のそれは再会への確信が前提にある。マーちゃんの中に父親が生き続けるに違いない(I.K)/マーちゃんの文章は詩というよりも手紙。いや詩とは手紙なのかもしれない。それでパパの存在が見えるのだ(N.A)/純粋ということ、その切実さや必死なところが、まるでわたしと違う(Y.A)/「パパへ」の語尾が人を感動させる。つまり問いかけるというカタチ。これは詩歌表現の効果という視点で重要(K.H)/成長するにつれて、できることと、できないことが見えてくる。「マーちゃん」はまだ見えていない。そのあわれが人の心を打ってくる(Y.M)