最近和洋詩歌考現学9 ―教材◆まっすぐに〈モノを見る〉ということ
2008年 08月 07日
ここでは、晶子の眼について考えます。それは「まっすぐに〈モノを見る〉」眼のことです。この眼を持たない人に詩歌を詠む能力はそなわりません。晶子にはそれがありました。しかし、その眼は時代の眼でもあります。それを理解する助けとして以下に多少の歴史的な解説をしておきます。
世界の歴史には、他国を植民地にして属国とするという基本的な構図があります。戦争です。晶子の生きた時代は西欧列強を真似て、日本も朝鮮を中心とするアジアへの国権伸張をはかります。かの福沢諭吉でさえ、中国や朝鮮を野蛮な国とみなし、アジアへの進出を正義のための戦争と主張しました(脱亜論)。国家の実益のみを追う政治が展開するのです。日清・日露戦争がそれです(Where did the humanity go to?) 。
晶子の弟が駆り出されたのは日露戦争です。ロシアの影響下にある満州に進出して経済市場を開拓するための戦いです。戦争を支える日本の財政をイギリスやアメリカに依存したものでした。旅順はロシア軍の要塞で、攻略は熾烈をきわめ、乃木将軍率いる日本軍は多くの戦死者を出しました。開国後の文学が、従来の勧善懲悪的な世界を否定し写実主義を標榜し、自我の解放や個性の尊重が説かれ、人間の真相を描こうという自然主義を精神的な支柱にしつつある時代でした。
なお、解釈と鑑賞の便宜として、語釈を添えました。レポート執筆の際の参考にしてください。
君死にたまふことなかれ
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
與謝野晶子
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。
あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
―『戀衣』(本郷書院、明治三十八年(1905)による―
【語釈】○旅順 中国大連市の港湾地区。日清・日露戦争で日本軍が攻落した戦地であった。ここは明治三十七年、三十八年(1904~05)の日露戦争。日本と帝政ロシアが満州・朝鮮の制覇を争った。旅順口は日本軍の手に落ちたが、日本軍には59,000人の死傷者があった。 ○をとうと 弟。正しくは「おとうと」。 晶子の実弟。 ○堺 大阪府の南に隣接する町。室町期から商人自治の環濠都市として発展、貿易港、工業地帯として知られる。 ○舊家 旧家。代々長く由緒ある家柄。 ○繼ぐ 継ぐ。継承・相続する。 ○あきびと 商人。 ○すめらみこと 天皇。 ○かたみに 片身に。互いに。 ○獸の道 非人間的な世界。 ○人のほまれ 人間としての名誉。 ○大みこゝろ 大御心。天皇の心。天皇への最高敬意。 ○もとより 初めから。本来。いうまでもなく。 ○いかで どうして~か(反語)。 ○すぎにし秋 この前の秋。 ○父ぎみにおくれたまへる母ぎみ お父さまに先に死なれてしまったお母さま ○いたましく 不憫にも。気の毒なことに。 ○召され 戦争に駆り出され。 ○家を守り イエヲモリ。夫も息子もいない家を守り。 ○安しと聞ける大御代も 平穏といわれる天皇政治の時代にも関わらず。 ○暖簾 のれん。 ○あえかにわかき新妻 かよわく、若々しい新婚の妻。 ○十月も添はで トツキモソワデ。十ヶ月にも満たない結婚生活で。 ○少女ごころ おさなく感じやすい心。 ○この世ひとりの君ならで この世で一人しかいない夫のあなた以外に。 ○また誰をたのむべき 他の誰を頼ることができようか(他の誰にも頼れない)。

