「室の八島」の執筆意図◆俳諧講座始末
2008年 08月 21日
だから、あえて繰り返しておこう。芭蕉の陸奥行脚の目的のひとつは歌枕探訪である。陸奥行脚は白河の関からはじまるが、そこに至る前の、なるべく早い時期に「歌枕とはなにか」を解説する必要がある。その適切な箇所として室の八島が選ばれている。その本意を縁起という方法で解説しているのである。このことは「又煙を読習はし侍るもこの謂也」という知識を踏まえて、「糸遊に結つきたる煙哉 翁」(『曽良旅日記』)とあることでもわかると思うのだが…。
確かにそうだと思いますが、当時は今のように観光開発が進んでおりません。歌枕は歌枕であるというばかりでなく、当時の名所でもありました。
今の観光名所みたいなもんです。芭蕉らが室の八島を訪れたのも、そこが歌枕であるというばかりでなく、室の八島は当時「下野国に二つとない名所」(下野風土記)だったからです。
日光を訪れるついでに室の八島を訪れたような書き方をしている参考書がいくつもありますが、それは間違いです。下野国の最大の目的地は室の八島です。芭蕉らは日光を訪れたと言うより東照宮を訪れたのです。
「芭蕉の陸奥行脚の目的のひとつは歌枕探訪である。」より、東照宮は本来の目的地ではありません。

大神神社に来られた方は分かると思いますが、ここは木が鬱蒼としていて、とても陽炎の立つような場所ではありません。
芭蕉は曽良に、この神社が室の八島ですといつて案内されましたが、とてもこんな神社が室の八島であるなどとは信じられなかったのです。
曽良が持参した備忘録に「・・・名のみなりけり」「跡もなき・・・」の和歌が載っていますが、芭蕉も当時の室の八島は「跡もなし」と考えていました。
つまり当時の室の八島は、昔日の面影がすっかり無くなり、野原や田畑など陽炎が立ちそうな何も無い場所に変わっているだろうと芭蕉は考えていました。当時、芭蕉同様に考える人は沢山おりました。そしてそれが正解です。曽良が紹介する神社の室の八島などというものは当時でさえ存在しませんでした。これはこの神社の大嘘です。曽良は単に神社の言う事を芭蕉に紹介しただけなのです。
曽良が持参した備忘録に「・・・名のみなりけり」「跡もなき・・・」の和歌が載っていますように、曽良自身神社が言う事を100%信じたわけではありません。

当時の代表的な室の八島は神社境内にある八つの小島のある池で、下野国外まで知られていました。(貝原益軒の[日光名勝記]参照)
この「池の室の八島」と曽良が紹介する「神社の室の八島」とは、起源が
全く異なります。
[奥の細道]の中で曽良は「室の八島とは一般に知られている池のことではありません。実は神社(の神域、境内一帯)のことです」と芭蕉に話しているのです。池がこの神社の祭神木花咲耶姫の無戸室の故事の舞台になれる訳が御座いませんでしょう。また無戸室の故事に池は一切登場しませんでしょう。

これが[奥の細道]室の八島の段執筆の最大の理由です。
「奥の細道」解説書の説明は全て出鱈目だと思ってお忘れになったほうがよろしいと思います。
室の八島保存会のHPは、極めて科学的に解析された超一級の研究報告です。そして過去300年間誰一人として解読できなかった室の八島の段を完璧に解読しています。
これは、極めて科学的に解析された超一級の研究報告です。そして過去300年間誰一人として解読できなかった室の八島の段を完璧に解読しています。
「奥の細道」解説書の説明は全て出鱈目だと思ってお忘れになったほうがよろしいと思います。