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2007年 06月 25日 ( 1 )

 先日の「芭蕉会議の集い」でのこと。座談会「秋櫻子と素十に学ぶ」のあとで、N.Michikoが、サイトの「秋櫻子と素十―カノンの検証」所載句以外で気に入った句を抜いてみたといって、私の手に一枚の紙を渡した。彼女が選んだ句は以下の通り。

   鯛焼きの鰭よく焦げて目出度さよ  秋櫻子
   牡蠣鍋の葱の切つ先そろひけり   同
   わが好む蛤汁も葛西風        同
   水の上に花ひろびろと一枝かな   素十
   指ふれて加賀の春霜厚かりし    同
   一枚の冬波湾を蔽ふとや       同

  この紙には選句後に感じた疑問をいくつか添えてある。いずれも難問で、即答は出来そうにない。それで、昭和六年(1931)に秋櫻子から「『自然の真』と『文芸上の真』」という文章によって議論を仕掛けられた素十の返答「秋櫻子君へ」という短文を掲載して代用とする。掲出にあたっては、海紅のさかしらにて、当世風の文体に置き換えて提供する。玩味していただきたい一心によるものにて、他意のないことをおことわりしておく。

   秋櫻子君へ            高野素十

  秋櫻子君、君が説く「自然の真」も、その「自然の真」を究め尽くして、さらにエキスを加えたという「文芸上の真」も僕は知らない。そして知らないことを恥ずかしいとは思わない。
  君が蔑む鉱石には鉱石の美しさがあり、鉱石を精製してつくった金属には精錬された金属の美しさがあろう。僕の場合は、自然の種々相つまり山川草木それぞれにある美しさを発見し、それを写そうとしただけである。君が「自然の真」を究め尽くしたと考えて、それに「エキス」なるものを加えている間も、僕は自然の相を写していたが、それでも写し得たと納得できる句はほとんどない。かりに三千年の寿命をくれたとしてもそれは無理であろう。自然の相とはそういうものであって、容易に究め尽くせるものではあるまい。
  ではなにゆえに写し続けるのか。それは「俳句は花鳥諷詠の文学なり」という言葉を肯定し、それに満足しているからである。この言葉は、俳句とは文芸上からも自然からも離れられないものであるという意味である。君が「自然の真」というものを究めて、それに書斎で養った頭脳で「エキス」というものを加えた結果、君のいう「文芸上の真」なるものに仕立て上げられたとしても、それが俳句である以上は「自然の実相」というべき性質のものである。うまくいっても、ふたたび、いわゆる「自然の真」に還元されたとみるべきではなかろうか。
  純金というものは人間が造り得る一方で、自然にたくさんころがっているものでもある。その「自然の真」を究めたという君が、なにゆえさらに「心」を深くする必要があるのか理解できない。「心」を深くして何を観察し、何に興味を持とうとしているのかわからない。
  僕は、君のように数冊の芸術論や美学論を読んで、すぐに「芸術とは何か」がわかるような明晰な頭脳を持っていない。書斎で文献を渉猟し、竹ノ台の展覧会に出掛けて絵画彫刻を鑑賞して、それで深くすることの出来る「心」を持っていない。
  「この花を彼がどのように見たか」とはよく聞く言葉である。だが僕はそんなふうに「この花」を見たことがない。「どのように見たか」というような考え方を無くそう、無くそうと努力したことはある。人それぞれの見方でなく、僕には「この花」だけが大切なのだ。
  僕は流れゆく雲の姿を追いかけて愉悦を感じる人間である。君が軽蔑する「自然の相」が眼前に去来するのを眺めて楽しみとする輩である。
  僕の俳句に取り沙汰される問題があるとしても、君の芸術理論によって左右されるとは思わない。左右されるとすれば、それは僕自身の心の興味によってであろう。宗教とはそんなものではなかろうか。 ― 昭和6年10月『まはぎ』―
by bashomeeting | 2007-06-25 00:06 | Comments(3)