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 たしなみ句会の第四句集を編むという話をうかがい喜んでいます。それに合わせて、少し前に鹿鳴さんが問題提起していた「本意」について私見を述べてみます。
 「本意」は辞書をひくと「本来あるべきさま」と解説されています。和歌連歌俳諧の歴史には掛詞や縁語などのレトリックがまつわりついて、簡単には説明できません。しかし、掛詞や縁語に頼らなくなる十七世紀後半、つまり芭蕉晩年から現代の俳諧(俳句)においては、「本意」とは季題(季語)が持つイメージと考えてよい。
 「主観」、つまり「見えているもの」や「感じていること」は人によって異なる場合もあるから、「本意」をつかむには徹底した観察が不可欠です。そして、「桜って、そういうものだよネ」といえるとき、それが「桜の本意」ということでしょう。ただし、それをそのまま句にしても、「説明に過ぎない」と否定されてしまいます。みんなが了解していることは自明の事柄だから省略する、表現しないというのです。いうのは簡単ですが、行うのはむずかしい。でも、むずかしいから愉しいともいえます。
 日々、御仕合わせに。

▶▶これは『たしなみ』(たしなみ俳句会4周年記念句集、平31年3月31日鈴木勝也跋)に求められた「序にかえて」の全文です。ただし、結晶度を高めるために多少の加筆修正を施しています。断捨離の日々が続いていますので、散逸を恐れて、しばらくここに残します。
by bashomeeting | 2019-04-04 16:33 | Comments(0)

 いろいろあって文学を仕事にしてしまいました。いろいろあって古典文学を専攻してしまいました。企業を退職して、大学の夜間部に入って、ありがたかった講義は天文学と哲学でした。二つとも、人間が死んでゆくのは致し方がないのだと教えてくれました。
 守備範囲の古典では、西行法師や芭蕉庵桃青に関心を持ちました。二人の分野は和歌と俳諧と異なりますが、俳諧もつまるところ和歌の一分野です。芭蕉が生まれる前に和歌の歴史は九〇〇年以上あり、俳諧は芭蕉が生まれて以後に限っても四〇〇年に届こうという歴史を刻んでいます。だから、和歌とは何か、俳諧とは何かという根源的な問いの答えは色々あるでしょうが、日本人が一貫して向き合ってきたものは「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」(『古今集』仮名序)であります。
 すなわち、古代ギリシャのヘラクレイトスが説いた万物流転、あるいは有為転変・生々流転・飛花落葉といっても同じでしょう。西行や芭蕉の生涯はそこに無常を感じとることで、限りある時間をよりよく生きることでした。俳諧の季題はその無常を確かめる何よりの教材なのです。無常を確かめることが日々をよく生きる最善の道だと思うのです。わたしは俳句をこんなふうに大切に思っています。

▶▶これは『たしなみ』(たしなみ俳句会3周年記念句集、平30年3月31日杉本勝人跋)に求められた「たしなみ句集Ⅲに寄せて」の全文です。西行の「心の誠」、芭蕉の「軽み」、虚子の「花鳥諷詠」に貫道するもの(哲学)の一環とお考えいただければ幸いです。断捨離の日々が続いていますので、散逸を恐れて、しばらくここに残します。


by bashomeeting | 2019-04-04 15:51 | Comments(0)

 たしなみ俳句会の二周年と、その選集の完成を御祝い申し上げます。
 すでにお話しさせていただいたことですが、私の教師生活は常磐線沿線の高校教師で始まりました。この地域には私の恩師村松紅花と信頼関係にある俳人がたくさん住んでいて、「紅花先生の指示である」といって、赴任後の私をあちこちの句会に誘ってくださいました。私の俳句は茨城県の俳人に育ててもらったといってよいのです。
 そこで教わったことのひとつに「泥吐き」という言葉があります。鮒・鯉・鯰・鰌、そして貝類などを料理する際の下ごしらえの一種で、魚介類が体内にため込んだ泥や汚物を水中に排出させることを意味します。句作をこの泥吐きに喩えて、よい句はトコトン泥を吐いたあとで、ふうっと口をついて出てくるものだというのです。
 ともすれば、泣いたり笑ったりする日常の感情の起伏を表現するものと、俳句を考えがちですが、そんなものは松尾芭蕉が否定した私意であって、そういうものを吐き出してしまって、ああ、もう言いたいことなど、残っていないという段階に入って、はじめて私情を離れた心底を言葉にできる。それが本物の俳句だ。季題を通して見る天然自然は、魚介類の泥吐きにおける水に等しいのだ。季題を学ばねばならない、あるがままの世界を凝視せねばなるまい。私は「泥吐き」をそんなふうに理解したのでした。そして、今もその気持ちに変わりはありません。
 繰り返しておきます。事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜びましょう。たしなみ句会発足二周年まことにおめでとうございます。日々の御仕合わせをお祈りしています。
                           平成二十九年年二月十四日の月下にしるす

▶▶これは『たしなみ俳句会』(2周年記念句集、平29年2月刊)に求められた「たしなみ句集Ⅱに寄せて」(平29.2.14稿)の全文です。断捨離の日々の散逸を恐れて、しばらくここに残します。


by bashomeeting | 2019-04-04 12:30 | Comments(0)

 昨年、NHKのドキュメンタリー「ファミリーヒストリー」の「中山エミリ、 ルーツは地中海・マルタ島 日本への帰化」という番組を見た。英国人ロジャー・ジュリアス・イングロット氏の生涯を追跡するもので、俳句仲間のM氏一族が女優中山エミリの親戚にあたり、御自身も番組でお話しすると聞いたからだ。
 それでしみじみ思ったことは、誰でも自分のルーツを辿ると、そこに大きな歴史があらわれるということであった。俳壇のような世界からみれば、たしなみ句会はちっぽけきわまりないが、そこで句作する人の人生は芭蕉・蕪村・一茶や子規のそれに少しもひけをとらない。ボクは本気でそう考えている。
 たしなみ句会は、瓢箪から駒のように生まれた。生涯学習センターの永山邦子さんが初めに講師の御願いをしたのは聖心女子大学に勤める友人F氏であった。ただ永山さんの意図は講座の終わりには俳句を嗜む気持ちがうまれて、それが日立の人々の日常の支えになることにあったため、友人がボクを紹介してあの講座が成立した。この人生の選択が正しいかどうかはわからないが、ボクの四十年は研究と句作を両立させるというものであったからだ。出かけてみると、そこに古い俳句仲間の勝人さんや君江さんがいた。なんだか、偶然とは思えないものを感じたのである。
 一年間にわたり申し上げてきたことは。俳句は事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜ぶという、とても身体によい詩歌ということである。その思いが届いて、一周年という時間を刻んだことは、いつか誰かにとって、それはボクらの次世代かもしれないし、もっと先かもしれないが、捨てがたい歴史になることをボクは信じて疑わない。


▶▶これは『たしなみ俳句会』(1周年記念句集、平28年1月24日杉本勝人跋)に求められた「たしなみ句集に寄せて」(平29.1.22稿)の全文です。断捨離の日々に入ったゆえ、散逸を恐れて、しばらくここに残します。


by bashomeeting | 2019-04-04 12:05 | Comments(0)

 3月31日を以て退職する。教職から解放される。
 高等学校を卒業する前後から、入学式や卒業式、歓迎会や送別会というたぐいが苦手になった。ひとつの号令で、何百人、何千人が立ったり座ったり、唄ったりする時空を異様に思うようになった。ましてや、セレモニーの中心に据えられるのは恥ずかしくて、やりきれなくなった。
 しかし、組織のなかで生きてきた以上、こうした質を理由に礼儀を欠いてはいけない。そう諭す人もいて、挨拶を7回こなし、花束を3回もらった。別に大学院にゆかりの先輩後輩が集って文学散歩を兼ねた送別会があり、さらに30年以上続けた古典講読の会も閉じた。また、芭蕉会議が雪残る銀山温泉で1泊吟行をもてなしてくれた。
 旧臘、こうした事態を避けられないとみてN氏にすがり、『九十九句』という小さな句集を編んで、300部刷った。ささやかなお礼のつもりである。松尾芭蕉を講じている朝日カルチャーセンター(新宿)にも運んで、〈300人も友だちはいないので〉といって、聴講してくれている人々にも差し上げた。
 受講者のなかに、俳諧(俳句・連句)を暮らしの杖にしているSさんがいて、ボクの句集の中に〈連句で付句にしたい句がたくさんあって、記念に遊んでみました〉といって、次のような三つ物二種を贈ってくれた。
 前置きすれば、「春雷に」の脇句「足湯してゐる女九人」は拙句「足湯して女九人春浅し」を短句に、第三の「藤の香を風立ちてより追いかけて」は拙句「風立ちてより藤の香は風を追ひ」を「テ」留めに仕立て直したものである。また、「ものの芽の」の第三「古扇にもの言はぬこと決めてゐて」は拙句「もの言はぬことに決めたる古扇」を「テ」留めに仕立て直したものである。こんな遊びは誰に気兼ねもなくて楽しそうである。
 ちなみに、『九十九句』はまだたくさん残っている。

  お祝い 三つ物
   春雷に
春雷に明るくなりしベンチかな   海紅
足湯してゐる女九人        同
藤の香を風立ちてより追いかけて  同

   ものの芽の
ものの芽の風にとかれて明るしや  海紅
「あずさ二号」へ急ぐ花時     昭子
古扇にもの言はぬこと決めてゐて  海紅


by bashomeeting | 2019-03-29 18:25 | Comments(0)

 必ずしも適切とは思えないが、ほかに思いつくものがないから定命とか天寿ということばを用いる。3月16日、芭蕉会議発足以前からのお付き合いであるKさんが天寿を終えられた。俳号は山茶花、ボクの命名である。
 平成24年12月15日(土)と16日(日)の1泊2日で恋瀬川・霞ヶ浦で1泊の吟行会をおこなった。現地集合というプランで、宿に定めた「いづみ荘」(石岡市高浜)に集まった。女将さんが床の間に掛けてくれていた高野素十の色紙「湖の月の明るき村に住む」を見て、その句碑を見に高淵寺観音堂に出掛けた。この日は朝から冬の雨が降ったりやんだりで、句碑も、その句碑を包む山茶花も濡れて、いきいきとして見えた。
   山茶花にたつぷりの雨素十句碑
 Kさんのこの句は、その際の作で、宿に戻って行われた句会で最高点を得た。ボクは山茶花を名乗ることを勧めた。
 彼女は会社勤めの若いころに、少し俳句をたしなんだことがあると話していた。OLをしながら俳句会に参加していたとは、まことによい世の中であった。その後、やめてしまう時代があるにしても、実は二十代、三十代に好きになって、熱中したことがあるのは財産である。その財産は「素直な眼」のように思う。彼女に対するボクの句評はつねに〈素直でよろし〉という一言であった。素直は境地であり、人間の出来である。人間が出来ていれば、相応の句が生まれる。これは芭蕉の教えでもある。〈素直は上手に優る〉といって誤るまい。
 だれかを誘って、「いづみ荘」を訪ねたくなった。 合掌

春といふ魔物に押され病くる
旧正や半襟の白掛けなほし
春雷にすがる人なき暮らしかな
江ノ電をフリー切符で春の海
流氷のひしめきあふも寂しげな
存分に学び遊びて卒業す
少しだけ菫くくりて髪飾り
ローカル線蓬のかをりコトコトと
期日前投票すませ夏句会
子等帰りゆきて一人や夏の果て
たたかれし記憶なき父セルコート
合宿の白靴山のやうに脱ぎ
ハート絵馬手児奈霊堂青葉ゆれ
目にかかる髪をはらひて野分行く
また一つ露ころがりて葉に遊ぶ
白樺のふところふかし秋の湖
祝ふこと久しき硯洗ひけり
落日の蔦美しき夜学の灯
焼米に少し籾の香あるやうな
ポケットに何やら後の更衣
子規の部屋に師走の日ざしやはらかく
年越しの一泊楽し恋瀬川
節分の決意あらたに万歩計
水揚げや河豚は大きな歯を切られ
なんとなく猫に目をやる漱石忌
箸先でころころ遊ぶなめこかな
by bashomeeting | 2019-03-27 11:23 | Comments(0)

 詩歌も絵画も、そして音楽も享受者(Person enjoying)のものです。よって、俳句に即していえば、読者が他人の作品に読み取るものは、知識や経験によってさまざまであるといってよい。

 しかし、そのわがまま(selfishness)を作者が仕込んではいけない。助長させてはいけない。和歌の歴史の掛詞や縁語などという言語遊戯を繰り返してはいけない。つまり、ことばを信じて、平明に表現しなければいけない。ボクらはわずか十七拍の舟で旅をしているのだから。


▶▶『たしなみ俳句会報48』(2019.1.12)による。ただし、結晶度を高めるために修正を加えている。
by bashomeeting | 2019-02-26 20:16 | Comments(0)

この人の一句◆中村ひろ子句集『ドロップ缶』ふらんす堂

神仏と遊ぶ鳥獣戯画の夏
心根の透けてきさうな夏衣
くづ金魚三つの命掬ひけり
再会の約束はせず麦酒つぐ
羽子板の少女横向く歳の市
半壊と便りにありて薄暑かな
かしは手を打ちて蜥蜴に一礼す
山神に分けて貰ひし歯朶飾る
弁天の水馬をのけ銭洗ふ
秋の来る方を見てゐる風見鶏

▶▶中村ひろ子句集『ドロップ缶』〈未来図叢書第207篇〉(2018.9.19、ふらんす堂)をいただいた。ひろ子さんとは東洋学研究所のシンポジウム(2019.1.12)で再会。ボクの「日本の詩歌と釈教―芭蕉連句を軸にして―」という話を聞いた感想を手紙に添えてくれた。そこに、「芭蕉の仏教観とは本当に目から鱗…」「まだ鎌倉新仏教が誕生していない時代に、和歌を手にしたまま成仏したいとあがいている鴨長明がかわいそうになってきた」とある。熊本大学を出た才媛で、大学の学生句会で俳句に出逢い、「未来図」の人々との吟行で研鑽。仕事・結婚、そして子育てという生活に、一時、俳句を諦めたようだが、近年再開して、それ以降の句を収める。鍵和田秞子の序、作者自身のあとがき。俳人協会会員。
by bashomeeting | 2019-01-24 17:59 | Comments(0)

はじめての連句2018◆「魚鳥の」脇起こし半歌仙

魚鳥の心は知らず年忘れ      芭蕉
帽子につもるほどの初雪      富博
ストーブも焚火も季語と驚いて   知里
今も昔も風の子といふ       菜月
石畳来る足音に月白く       真聖
換気扇から届く蕎麦の香       功
虫の夢虫の声とはかぼそくて    真聖
父の上着に口紅の跡         葵
恋仲を見てみぬふりの笠地蔵   舞里奈
大きなビルに変はる四つ辻      功
本当は漫画を描いて稼ぎたい   香葉子
呼んでも返事をしない不機嫌    菜月
人多き待合室もホームにも     千映
賛美歌響く夏の夜の月      真太郎
先生に隠れてアイス食べてをり   香葉子
後悔多き日記読むらし      舞里奈
お下がりの着物にみえず花吹雪   海紅
壺焼きを買ふ青きマニキュア     葵  

▶▶平成9年度以降、30年度まで学部3年4年ゼミは連歌俳諧研究で、友人と編んだ『連句の世界』(新典社)を教材にした。毎年30名程度のゼミ生が所属したというと、他大学の研究者は、その受講生の多さに驚いた。連歌俳諧の分野に、毎年そんな人数が集まるものかと疑いの眼を向けるのだが、事実である。本年もその最後に、作る側にまわって芭蕉の「年忘れ」の句を立句に、「はじめての連句」を創作。こうした文芸に一座した昔の人々の知性に驚いてもらった。句案はなかなか難しいらしく、ここに登場するゼミ生は10名(ワタナベ・トミヒロ/フジヌマ・チサト/ゴトウ・ナツキ/トウドウ・マサト/クボタ・タクミ/スガワラ・アオイ/ヒラコ・マリナ/タカハシ・カヨコ/イケダ・チアキ/カンバラ・シンタロウ)だが、切り短冊を受け取って、付句に智恵をしぼった総数は30名である。
by bashomeeting | 2019-01-19 12:21 | Comments(0)

あけましておめでとうございます2019

 平成三十一年年己亥 歳旦

定年といふ字を太く初硯  海 紅

▶▶詩歌の表現の本質は省略にある。それが生む間にある。間は余韻(心情)を盛りつける皿である。皿はどんな読者の心をものせ得る普通の皿(一般性・普遍性)であってほしい。年頭にあたって思ったことです。日々を御大切にお過ごしください。
by bashomeeting | 2019-01-01 09:46 | Comments(0)