2021年 01月 02日
2021年賀
2021年辛丑歳旦
旧識の欠くることなく初鴉 海 紅
2020年 09月 11日
転載◆句を植えた人々(『俳壇年鑑』2007版/各界展望◎俳文学界)
その俳句の師が、昭和初期に入植した佐藤謙二郎(俳号念腹)である。念腹は原始林を開墾して珈琲を栽培し、稲や玉蜀黍を植え、豚を飼うという試行錯誤の果てに、牛を飼うことでようやく暮らしの安定をはかり、かたわら九百回におよぶ俳句普及行脚を経て二千数百名の俳人を育て、六百ほどの俳句会を指導した。ブラジルは国民の九十パーセントがカトリック教徒で、ポルトガル語を話す国である。日本移民とはそうした異文化の地に四季を発掘し、俳句を移植するという偉業を成し遂げた人々でもある。
その歴史が佐藤牛童子編『ブラジル歳時記』(十月刊、日毎叢書企画出版)としてまとめられている。これはサンパウロ市の四季(二十四節気)に基づき、巻頭にブラジルの花や果実、二百三十六点のカラーグラビアを掲げる。四季は夏(新年)、秋(二月から四月)、冬(五月から七月)、春(八月から十月)、夏(十一月から十二月)に配列し、全二千百余の季題を立項、季題の解説と例句を収めている。編者牛童子(本名篤以)氏は佐藤念腹の末弟である。
ちなみに、ブラジルでは日本人移住百周年の二○○八年を記念して『人文研究叢書』が刊行され、その四集「ブラジル日系コロニア文芸上巻」に栢野桂山「ブラジル俳諧小史」がある。俳誌『雪』(新潟市)が一月からその転載を始めた。(下略)
▶▶本阿弥書店の『俳壇年鑑』で十年余り、「各界展望◎俳文学界」という欄を引き受けていたことがある。掲出の「句を植えた人々」は、その平成19年(2007)版のタイトルで、転載した部分は導入部。珍しい『ブラジル歳時記』の紹介が目的であった。佐藤念腹評伝『畑打って俳諧国を拓くべし』を紹介したのを好機とみて、ここに併出。やがてどこかに紛れ込んでしまうにちがいない拙文、備忘のつもりである。ちなみに、上塚周平(俳号、瓢骨)は熊本の人で、旧制第五高等学校(熊本大学)で夏目漱石に学び、正岡子規とも接点があって、佐藤念腹と出合う前から俳句をたしなんでいたことを附記する。
大統領選挙の群の跣足人 瓢骨
信あれば文は短し秋灯下 念腹
2020年 09月 11日
紹介◆蒲原宏『畑打って俳諧国を拓くべし―佐藤念腹評伝―』
在ブラジルの日本人移民社会結束の核として俳誌「木蔭」を創刊し日本人の文化的水準の高さを証明し、高い社会的地位確保の突破口を開いた。「サトオ通り」の町名を残す。
〝ブラジルの虚子〟と称された新潟県阿賀野市(旧笹神村笹岡)出身の一移民俳人の壮烈な生涯を追った力作。念腹氏は俳誌「木蔭」主宰。俳誌「ホトトギズ」同人。俳誌「まはぎ」誌友。
中田みづほ・高野素十・濱口今夜「ホトトギス」三羽鴉の新潟医科大学俳人教授と刎頸の親友であった。
2020年 08月 16日
コロナ渦の終戦記念日◆霊あらば親か妻子のもとに帰る靖国などにゐる筈はなし 市村 宏(『東遊』)
ベッドひとつ与えられなかった
検査ひとつ受けられなかった
だから、誰も数値を知らなかった
だから、誰も責任を感じなかった
2020年 08月 09日
なぜ俳句を詠むのかⅩ◆『芭蕉会議の十年』序(転載)
――わかった。応援してるよ。
こう言って、M先生は万札を数枚、はだかでわたしの手に握らせた。
――ガンバッテください。
Kさんも同様に祝儀を差し出した。俳文芸研究会後の酒席で、芭蕉会議を立ち上げる決意を伝えた際の一コマである。この研究会はわたしを国文学研究者の端くれに育ててくれた学者の集まりで、代表のI先生亡きあとの月例会は、わたしの研究室でおこなわれていた。
――ボクも身のほどを知るべき年齢になった。来し方を振ると、行く末は学者でも俳人でもない、その中間の道をさぐるのが自分に正直であるように思う。俳句を暮らしの杖にしたい人、学習を人生の糧にしたい人々にまじって、なろうことなら彼等の役に立ちたいと思う。
お二人に申し上げたことは、おおむねこのようなことであった。仲間に古代史を研究するHさんがいて、御親戚の稲澤サダ子さんの句集『月日ある夢』(平成十四・二、文成印刷)をいただいたこともわたしの背中を押した。作者とは一面識もないが、青森県立女子師範を卒業した明治生まれの女性で、北海道で妻として母として、また教師として、生涯に五千句におよぶ俳句を詠んだ。卒寿を迎え、その子どもたちが三百数十句を厳選し、初の句集として母に贈ったのである。この世には美しい話があるものだと思った。
アカシヤの花の心を胸に挿し
野に座せば吾も切株とんぼ来る
腰紐の紅きをかくし木の葉髪
長く勤めた会社を辞し、カルチャー&エモーションをコンセプトに、カルテモという会社を立ち上げるといって、内藤邦雄氏が訪ねてきたのはこのころである。芭蕉会議が十年目を迎えると教えてくれたのは、彼のもとで芭蕉会議のサイトを一手に引き受けている向井容子さんである。この二人には感謝の言葉もない。
ものごとには潮時というものがある。これまで何ができて、これから何ができるのかは仲間と相談して決めることになるだろう。評価は他人がするものだから。(平成28年12月6日)
2020年 08月 05日
なぜ俳句を詠むのかⅨ◆感情表現をしたければ、心から離れよ
2020年 08月 03日
この人の一句◆奥田卓司句集『夏潮』たかんな発行所刊
薄氷を跳ねて寄り来る雀どち
農継ぐは這ふことに似て田草取る
夕立やけふのもろもろ洗ひゆく
蝌蚪覗く校長次いで教頭も
青空のどこかが欠けて夏果つる
この空の裏の記憶や敗戦日
歩数計見て夕月へまた歩く
夕月や妻楽しげに稲架を解く
間伐の木へ結ふリボン斑雪山
灯取虫入りてにはかに雨の音
西瓜食ふ白き歯の子にある未来
稲刈るや来季はやめる米づくり
干鱈をかるく炙つて聞き役に
夕立を眺め老躯を休めけり
夜の障子孤児は人前では泣かぬ
雪の夜や己へ歌ふ子守歌
灯台へ行けと夏草揺れやまず
灯台も世事も小さし朱夏の海
我よりも健康さうな草を引く
神饌のほほづき午後の日を返す
流星やなほ母郷向く兵の墓
悲しみにある安らぎや遠銀河
白梅や生きてゆく日々清らにと
▶▶奥田卓司句集『夏潮』〈たかんな叢書第45編〉。吉田千嘉子序。自跋。名勝、種差海岸写真(岩村雅裕撮影)をカバーとし、自ら題字の筆をとる。序跋によれば、作者は昭和十二年(1937)に東京は小石川に生を享けるが、戦争で父を、空襲で母を失い、孤児同然の生い立ちの由。七歳で青森県の八戸の親族に引き取られ、若くして失意の底をのぞいたゆえか、教育者の道を歩む。現在も、俳誌『たかんな』編集長をはじめ、俳人協会青森県支部幹事、青森県俳句懇話会理事、八戸市文化協会常任理事等々、多くの役職にある。まさに人望の人と評して誤るまい。先達に対して失礼ながら、ボクは常々「失意」は人生最大の贈り物であると語ってきた。本当の人生(自分)はそこから始まる。「失意」を知った人だけが、自分に厳しく、そして優しく、結果としてすぐれた作品を生みだすのである。そんな人品を彷彿とさせる二十三句を選び出してみた。たかんな発行所、令和2年(2020)7月刊。
2020年 08月 01日
GHQの検閲◆『近代俳句史と「第二芸術」論』始末(1)
▶▶現在、伊藤無迅氏追福のために、俳諧・俳句研究機関や研究者及び俳人に、無迅遺著『近代俳句史と「第二芸術」論』の謹呈作業を続けている。上記の指摘は、無迅遺著が引用する川名大氏(かわな・はじめ。俳句研究者)の礼状に示された内容の要約である。その旨を記し、学恩に深く感謝する。
2020年 07月 22日
なぜ俳句を詠むのかⅧ◆水を運び、薪(たきぎ)をとり・・・吾ものむ
2020年 07月 05日
なぜ俳句を詠むのかⅦ◆仮名序「見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり」
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり。(下略)
▶▶『古今和歌集』「仮名序」冒頭の一節。〈乾坤の変と向き合えば、誰もが歌を詠む〉〈生あるものはすべて、見るもものや聞くものに託して歌にする〉という。誰もが知っている一節だが、「見るもの聞くもの」を〈漫然と見る、漫然と聞く〉レベルと思って、疑わない人が多い。そういう人たちの多くは〈実は見ていない、実は聞いていない〉人なので、自分の心にばかり拘泥して失敗している。31拍(モーラ)の短歌はいざ知らず、その約半分の俳句で自己に終始するのはきわめてむずかしいことだと思う。17拍という短さを武器に自己表現するための技巧は〈ことばを飾らない〉ということに尽きる。風流とか感傷に走ると、必ずことば数が増える。これを避けるために、俳句を〈省略の詩〉〈引き算の歌〉などという人もいる。