2006年 10月 23日
漂流と漂泊
鷹一つ見付てうれしいらご崎 (笈の小文)
と喜んだ。また、明治三十一年(一八九八)の夏には柳田国男が伊良湖に滞在し、そこで得た椰子の実の話を島崎藤村に語って、国民歌謡「椰子の実」(藤村『落梅集』)が生まれた。
だが、鷹と椰子の実ではものが違う。いかに遠き島から流れ着くとはいえ、椰子の実が海に漂うていても漂泊とは言えず、せいぜい漂流であろうか。漂泊とは精神のことなのである。
2006年 10月 22日
月の仏となり給へ
月の友月の仏となり給へ 海紅
2006年 10月 10日
書きかえられた本意
2006年 10月 10日
「切れ」というレトリック
詩歌は音楽である。音楽は、常にそのすべてが備わっているとは言えまいが、旋律(メロディー)・和音(ハーモニー)・拍子(リズム)の三要素から成っている。俳句も韻文、つまり詩であるから音楽である。よって、この三要素と無関係には成立し得ない。
俳句の要件として、よく「切れ」が取り沙汰される。これは詠嘆の在処を示すため、読み手(聞き手)を立ち止まらせるための装置で、文の構成法としては省略・中止・倒置に属する。それが音楽の三要素のどこかを刺激し、抒情に奉仕する。「切字」は「切れ」の具体例のひとつで、すべてではない。「切れ」は俳句に限らず、韻文ジャンル全体に不可欠な要件である。散文と区別される基本条件と言ってよい。
2006年 10月 02日
失せもの出づる―平泉紀行
折よく毛越寺はあやめ祭りで、平安の昔をしのぶ延年の舞には全国から人々が集まっていた。終日の五月雨も長く記憶に残るだろう。講義の締めくくりは、例年通り連句の試み、表六句を記録にとどめよう。
人の手で開ける列車や風薫る 宇田川良子
あやめ祭りをしつらへて待つ 小林 吉郎
寺廂涼しき月を押し上げて 谷地 海紅
なにぶらさげて帰る里の子 西村 通子
花すすき祖母にわたせば微笑める 原田 富江
ちちろ鈴虫ちちろ鈴虫 執 筆
もう一日ひとり旅を愉しむと言う喜美子さんと別れて帰途につく。新幹線では、車両を同じくする数人で一句会。喜美子さんは不在投句。
日常の旅へとかはる青田かな 正 浩
駅前の鉄風鈴に芭蕉の句 喜 美
木下闇芭蕉の句碑の読み難し 由貴子
空広し無量光院跡青田 海 紅
洗ひ髪草の匂ひの夜風かな 文 子
車中より青田の見ゆるわつぱ飯 正 浩
延年の舞 三句
童子舞ふ鈴音やさし五月雨 嘉 子
五月雨と童子の床を踏む音と 喜美子
麻衣童子は風を入れて舞ふ 文 子