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海紅山房日誌

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芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。

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去年のツバメ

 一昨日の朝のこと。I君の来訪にむけて玄関先を掃いていると、ツバメがわが山房の巣を伺いに飛来した。

 ― 今年は、来るのが少し早過ぎやしないかい。

 ツバメから返答はなかったが、そこは以心伝心、去年わが家で子育てをしたツバメであることは明らかである。
 昨年、母を亡くした私の哀しみを見ていたツバメである。
 天から届いた追福の使者である。
by bashomeeting | 2007-03-30 10:53 | Comments(0)

古りゆくこころ

  このところ、鶯を聞く日々が続いている。
  ― 笹鳴きがはじまったね。
  こう言うと、
 ― 三月三日に、古里の畑で聞いたわよ。
  家人が素っ気なく答えた。
  古里とはわが町のやや奥まったところの地名で、彼女の郷里のことではない。彼女は、その地の農家が提供してくれている畑で、仲間と野菜作りを愉しんでいるのだ。いつ、どのような理由で古里と名付けられたのかは知らない。
  本来、古里とは荒れ果てた土地、その昔に都などがあった古跡をいう。それが郷里の意となった。だから郷里とは万物流転、本質的にさびれた姿をさすものなのである。

   人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(貫之・古今・春上42)

  この貫之の〈ふるさと〉も郷里ではなく、人の心が以前とはすっかり変わりしてしまった土地の意。人の心はあてにならないが、梅の香は昔のままだという。さびれた故郷の姿などというと、現代は産業が衰えたりした町を想像しがちであるが、実は生き死にを含めた人の心の変化を本意とするのだ。もっとも、衣食足りていなければ、すさむのはあたりまえではあるが。
  今年も梅が去り、桜の季節が来ている。
by bashomeeting | 2007-03-22 10:59 | Comments(0)

地下室に題す(最終楽章)

 Sは地下室の電気を消しながら、壁に書かれた句のひとつひとつを読んだ。それらは「耳なし芳市」の身体中に書き込まれた経文のようにまぶしかった。二十年の歴史が息づいていた。
 ― 解体屋はどこから壊し始めるのかしら。
 もういちど振り向いた目が、何も書かれていない箇所をとらえた。
 ― そうね、天井からお願いしよう。
by bashomeeting | 2007-03-20 05:28 | Comments(1)

地下室に題す

 突然ながら、三月十八日に吟行句会を催したいという提案が芭蕉会議と俳文学研究会にあった。理由は、研究会が発足して十年余、例会後の懇親や座談と場となっている団子坂のとある地階の溜まり場が、三月二十日を以て閉店するからだという。年に二三度のことながら、店の主であるS女史が研究会の会員であることに甘えて、無理を聞いてもらっている。それで、S女史に感謝し、慰労する心で「さよなら句会」をおこなうのだともいう。ボクにもこみ上げるものがないではない。
 吟行は上野公園に新しく立てられた子規句碑からはじまり、清水観音堂、不忍池の弁天堂と周辺の塚碑をめぐり横山大観記念館へ。さらに旧岩崎邸を見て無縁坂を登り、東大構内に秋櫻子の句碑を一見して三四郎池に芽吹く柳をながめ、赤門から樋口一葉の桜木の宿(法真寺)をめぐって句会を終え、懇親の会が始まったのは十六時三十分くらいであろうか。
 ― この店内は、数日後に取り壊したうえで、お借りする前の状態に戻して、家主にお返しすることになります。それまでの短い時間ではありますが、本日はみなさんとの長い御縁の記念に、壁という壁に俳句を書き込んでください。
 突然、S女史が言った。
 だが、その意味をすぐに了解した者はおそらくいなかったにちがいない。しばらくは誰もそんな大胆に挑戦する者は出てこなかった。S女史の決意と趣向を少し理解し、緊張をほぐしたのはたぶん酒の心地よさである。やがてみなが筆をとり、思い思いの句を書きつけては、しみじみと眸子をうるませた。わたしもしばらく瞑想して即興句を書きつけ、「壁に題す」という古来の伝統の陶酔とか恍惚が奈辺にあるか、「地下室に題す」という体験によって頓悟した。

  鶴林寺に題す         李渉

終日 昏々たり 酔夢の閒
忽ち春の盡くるを聞きて 強いて山に登る
竹院を過るに因りて 僧に逢うて話り
又た浮生半日の閑を得たり   (『三体詩』)

 李渉は俗事に追われて、無意味な日常を過ごしていた。ふと、今年の春もおしまいだと聞かされ、けだるい気分をむりやり奮い立たせて、山に登ってみた。竹林で囲まれた寺院に立ち寄ったところ、偶然に僧侶と出逢って語り合い、この無駄としか思えない人生の中で、少しばかりのどかな半日を過ごすことができたという。
 昨日のボクらは李渉に少し似ている。
by bashomeeting | 2007-03-19 18:16 | Comments(0)

「あはれ」と「をかし」

 平安時代の感情表現を代表する言葉に「あはれ」と「をかし」があるが、前者は「感嘆」、後者には「滑稽」の語を当てはめて誤るまい。しかし、感情とはあくまで対象と向き合うことでわき起こる人間側の情動であって、対象とするモノ自身に「感嘆」や「滑稽」が備わっているわけではない。したがって、「あはれ」が主観的で、「をかし」が客観的なのではなく、両者はともに主観の範疇に収まる事柄である。
by bashomeeting | 2007-03-12 17:29 | Comments(0)

忙しいと言うな

 問われもしないのに、忙しいと口走ってしまった。それで周囲に気を遣わせて、二月が行ってしまった。忙しいのは哀れだが、遠慮されてぽつねんと暮らしているのも滑稽である。忙しいと言わず、自分を見失っていると言うこと。多忙と充実を混同しないこと。多忙とは無様を美化した思い上がりに過ぎない。
by bashomeeting | 2007-03-07 06:12 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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