海紅山房日誌

kaicoh.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

秋雨の那須野

仲間と、年に一度の紅葉狩りに、那須野に出掛けた。
旅の初日は秋雨、台風が一行を追いかけていた。
だが、十九人の誰ひとりその雨を拒むことなく、
紅葉宿に句を詠んで、心地よく酔った。
そのせいであろう、次々と唄が出て、尺八やオカリナが奏でられ、
ついに〈ひばりになる夢を実らせた〉女が明治座卒業公演の科白を披露し、
思いがけない男の落語を聞くこともできた。
こんなに一所懸命に命を讃えるものだから、翌日は抜けるような秋晴れになったのだ。
あななたちと歩いた二日の旅は素敵だった。
それは、とりもなおさず、あなたたちが素敵だったということだ。

 秋深き殺生石を一見す    海紅
by bashomeeting | 2007-10-29 21:59 | Comments(0)
 芭蕉会議の例会のひとつ「論文を読む会」では、いま俳誌『まはぎ』(第1巻11号、昭5・7)所載「秋櫻子と素十―句修行漫談のつゞき―」(中田みづほ・浜口今夜)を読んでいる。

 …このたゞ讀んでもあまり面白くなさゝうな(素十の)句といふのが私の所謂、今までになかつた俳句といふのであつて、秋櫻子君に於て見らるゝ今までになかつた俳句と同じやうに、兩者に獨得なものなのである。従てしばしば、普遍性を缺くおそれはある。作者と同じやうに其のものゝ眞髄を知つて居る人々でなければ解らないおそれがある。(みづほ)

 十月七日の会でこの箇所に至ったとき、江田浩司氏が呟いた。

…作者だけのコンテクストで作品を読むのが正しい読み方、というのであれば問題があるナア。

 たしかにそうだ。〈秋櫻子・素十はそれぞれ独自な世界を持っている。それは普遍性を欠くから、作者と同じレベルの人間以外は作品を理解できない〉と言っているようにも読める。とすれば、みづほには誤解があろう。
 すぐれた作品とは、普遍性(共鳴性・一般性)を備えたものであり、それこそが駄作とは異なる独自性である。その普遍性を見誤らないために、わたくしどもは研鑚する、自分のレベルの向上をはかる、自分の持っているものを増やす努力をするのであろう。

 さて問題は、その心と言葉と姿において、秋櫻子と素十のどちらに普遍性があるかということである。
by bashomeeting | 2007-10-09 06:10 | Comments(0)
 海紅句抄の愚句「秋桜と海をみてゐる安吾の碑」を、Yuzo氏が「私のふるさとは/空と海と砂と松林だった/そして吹く風があり風の音であった」(安吾「石の思い」昭21)を引きながら鑑賞してくれた。まもなくMichikoさんがこの一節に関心を示されて、二人に成立した対話をありがたく読ませてもらった。それで落着と思っていたら、まるで駆込訴(かけこみうったえ)のように、新しい書き込みがたくさんあって、一気に読んでしまった。
 そのなかで、Michikoさんがもらした言葉に次のようなものがある。

…人は自分のもっているものしか、旅から持ち帰れない(ゲーテ)

 紅花先生に「人間は自分のレベル以上のことは理解できない」と諭され、励まされた遠い記憶が甦った。
by bashomeeting | 2007-10-07 10:33 | Comments(0)

張り合ってはならない

 Tuyukusaさんが「写真と句」について、〈張り合ってはならない〉関係と書いている(芭蕉会議会員掲示板)。至言だ。

 勝たねば気の済まない人がいる。
 勝とうと思わない人がいる。
 ボクは後者だ。

 確か、素十がどこかに書いていた。
 …僕は、大きな声を出す人、威張る人が嫌いなんだよ。

 大きな声を出したあとのわたくしは哀しい。
by bashomeeting | 2007-10-05 07:35 | Comments(4)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


by bashomeeting