2007年 10月 29日
秋雨の那須野
旅の初日は秋雨、台風が一行を追いかけていた。
だが、十九人の誰ひとりその雨を拒むことなく、
紅葉宿に句を詠んで、心地よく酔った。
そのせいであろう、次々と唄が出て、尺八やオカリナが奏でられ、
ついに〈ひばりになる夢を実らせた〉女が明治座卒業公演の科白を披露し、
思いがけない男の落語を聞くこともできた。
こんなに一所懸命に命を讃えるものだから、翌日は抜けるような秋晴れになったのだ。
あななたちと歩いた二日の旅は素敵だった。
それは、とりもなおさず、あなたたちが素敵だったということだ。
秋深き殺生石を一見す 海紅
2007年 10月 09日
自分のレベル以上のことは理解できない
…このたゞ讀んでもあまり面白くなさゝうな(素十の)句といふのが私の所謂、今までになかつた俳句といふのであつて、秋櫻子君に於て見らるゝ今までになかつた俳句と同じやうに、兩者に獨得なものなのである。従てしばしば、普遍性を缺くおそれはある。作者と同じやうに其のものゝ眞髄を知つて居る人々でなければ解らないおそれがある。(みづほ)
十月七日の会でこの箇所に至ったとき、江田浩司氏が呟いた。
…作者だけのコンテクストで作品を読むのが正しい読み方、というのであれば問題があるナア。
たしかにそうだ。〈秋櫻子・素十はそれぞれ独自な世界を持っている。それは普遍性を欠くから、作者と同じレベルの人間以外は作品を理解できない〉と言っているようにも読める。とすれば、みづほには誤解があろう。
すぐれた作品とは、普遍性(共鳴性・一般性)を備えたものであり、それこそが駄作とは異なる独自性である。その普遍性を見誤らないために、わたくしどもは研鑚する、自分のレベルの向上をはかる、自分の持っているものを増やす努力をするのであろう。
さて問題は、その心と言葉と姿において、秋櫻子と素十のどちらに普遍性があるかということである。
2007年 10月 07日
人は自分のもっているものしか、旅から持ち帰れない
そのなかで、Michikoさんがもらした言葉に次のようなものがある。
…人は自分のもっているものしか、旅から持ち帰れない(ゲーテ)
紅花先生に「人間は自分のレベル以上のことは理解できない」と諭され、励まされた遠い記憶が甦った。
2007年 10月 05日
張り合ってはならない
勝たねば気の済まない人がいる。
勝とうと思わない人がいる。
ボクは後者だ。
確か、素十がどこかに書いていた。
…僕は、大きな声を出す人、威張る人が嫌いなんだよ。
大きな声を出したあとのわたくしは哀しい。