2008年 02月 24日
最近和洋詩歌考現学3 ―教材◆「私」はどこにいるのか
ドラマにしろニュースにしろ、TVに映し出される映像を見ていて、これは私の目が見ているわけではないと思って、カメラマンの目がみているのだと思って、電源を切ってしまうことがある。切ることはしないまでも、そういう神経を忘れたくない。
そんなふうに暮らしていると、私と同じように生きているひとりに出逢った。昭和57年のことゆえ、今は昔と言うべきか。直接お目にかかったわけではない。正確にはその人の詩に出逢ったのだ。
作者の名は井上繁利さん、当時十三歳。詩集の名は『新選対訳「どろんこのうた」』(北星堂書店 昭和57・1)。私は編者の郡山直先生と、その御友人本田徹夫先生とに御縁があって、一冊いただいたのである。
宝石箱のようなこの詩集から一篇を紹介し、ものの見方を変える教材としたい。なお、その簡明さに驚嘆した郡山先生の英訳も書きとどめておこう。
かがみ 井上繁利
ぼくは かがみを みたらいけん
ぼくは かがみが こわいけん
みんのです
ぼくのかおが かがみに うつったら
ふたりが おるけん
こわいです
The Mirror 郡山直訳
I don't look into the mirror.
I am afraid of it.
So I don't look into it.
When my face is reflected.
In the mirror, there are two me's,
So Iam afraid of it.
2008年 02月 12日
最近和洋詩歌考現学2◆講義の目的
2008年 02月 12日
最近和洋詩歌考現学1◆文芸創作始末
2008年 02月 09日
御紹介◆三木慰子さんのブログ「写メ俳句」
「写メ俳句」は http://blogs.yahoo.co.jp/mikiyasuko2008 です。
2008年 02月 07日
俳諧のゼミに入った本当のワケ
― 俳諧のゼミに入った本当のワケは、中学生のときにつくった自信作があったからさ。
― 聞かせろヨ。
― kimino te ha omottayorimo areterune
― 「君の手は思つたよりも荒れてるね」か。なるほどねー。
― 先生、脇をつけてください。
― 「冬日まぶしき理科室の窓」
卒業してしまえば、今までの学生がそうであったように、彼らも芭蕉や蕪村の世界とは無縁に仕合わせを築いて生きていくのだろう。それはそれでいいのだけれど、なろうことならその中学生のころのように、自分を詠む時間と方法は求め続けてほしいと思う。
2008年 02月 07日
江戸をのぞく◆遠藤寛子『算法少女』
本書は千葉あきという算法にすぐれた少女が主人公のジュニア歴史小説で、少女の父親の親しい友人として素外が登場する。以下はその読後のメモである。
◆120頁
素外も句集を出版するので、そうした事情をしらないわけではなかった。
「このあいだも、算書が一冊出たけどな。百冊ちょっと刷って、三両近うかかったそうや」
一両で、だいたいひとり一年間の飯米が買えたから、これはなかなかの大金であった。
「それでな。その算書に問題を発表した仲間が、一題について、二朱(一朱は一両の十六分の一)か三朱ずつ、金をだしあったそうや」
◆126頁
けいが線香花火に火をつけた。煙硝(火薬)のけむりをすうと、この冬はかぜをひかないといういいつたえに、子どもたちは、いそいでうちわをばたばたつかう。
◆141頁
「江戸におおいもの―伊勢屋、稲荷に、犬のくそ」
◆251頁
いま、写楽という浮世絵師の絵がとても評判になっています。芝居の役者の絵なのですが、これまでのように、ただのきれいごとでなくて、役者の表情をずばりとえがいて、こわいぐらいその特徴をつかんでいます。それで、かかれた人の中には、いやがる人もありますが、それだけすぐれた絵なのだとおもいます。
ところが、この人、いったいほんとはだれなのか、だれもはっきりしたことはしらないのですよ。あの人だ、いやこの人にちがいない、とさまざまうわさが立っているなかに、あなたもごぞんじの人の名がはいっています。だれでしょうか―ほら、あの俳人の、谷素外さんなのです。
いつもたのしそうに、世のなかを愉快にくらしているあのかたが写楽だなんて、おかしいようですが、わたしは案外そうかもしれないとおもっています。あなたが江戸にいられたころ、いろいろなできごとがありましたが、そんなとき、ふとかんがえこんでいる素外さんをしっていますし、「殿さまなんて、案外不自由なものさ。町かたのわたしらは、いっしょうけんめいやろうとおもえば、いろいろなことができるもんだよ」とおっしゃっていたこともおぼえていますので。
2008年 02月 07日
課題◆俳諧の文学性 ― 千年氏へ
(一) 一句一句の独自のおもしろさ
(二) 前句と付句との間に生まれる付味(つけあじ)のおもしろさ
(三) 三句の転じのおもしろさ
(四) 一巻全体の構成とその変化・調和のおもしろさ
ボクは明雅先生の著書の真面目な読者を自認する者であるが、この四点のなかで、どうしても胃の腑に落ちないのは第四点である。一巻の変化と調和というと、どうしても十代に魅了されつづけた西欧の詩を思い浮かべて、連句にはそれが欠如していると思ってしまう。それで、この一点を堂々とゼミの諸君に解説することが憚られる。連句の魅力を未来に創造するためにはこのあたりの問題を解決したいと長年思っている。一案だが、連句を巻く際に、連衆の心をひとつにするコンセプトを提示するというのは邪道だろうか。こういうことを考える際に、追善・法楽・見舞い・祝儀などのことばが打開のヒントを与えてはくれないだろうか。