2009年 06月 30日
講座:奥の細道 ― 古人とともに生きる Ⅰ―
1,6/26(金) 『おくのほそ道』を聴く、さわる
2,7/ 3(金) なぜ旅に出たのだろう
3,7/10(金) みちのくって、どんなところ
4,7/17(金) どんな人が描かれているの
5,7/24(金) 俳句って、なんだろう
2009年 06月 30日
常世へ19―村松紅花名誉会員を悼む
村松紅花先生(本名友次。文学博士)には、昨年七月より病気療養中であったが、平成二十一年三月十六日、東京都清瀬市の病院にて永逝。享年八十八。
長野県の丸子町に生まれ、戦時中に小諸に疎開した高浜虚子に師事して、戦後はその虚子庵の留守を守り、虚子没後は高野素十に従った。〈選者になると、句が下がる〉を持論としたが、素十亡きあとは、乞われてその一門を糾合する『雪』誌の選者となり、多くの俳人を世に送り出した。だが、〈師が在りし日のごとく、終生選を受け続けたい〉という信念はゆるがず、『雪』誌を出て俳誌『葛』主宰となって以後も、『ホトトギス』への投句を怠らなかった。その虚子敬慕の念は、有志を募り、私財を投じて実現に奔走した小諸高浜虚子記念館の建設に端的にあらわれている。
また国文学者としては、井本農一氏を軸に結成された俳文芸研究会の主要メンバーで、とりわけ芭蕉の『おくのほそ道』研究において長く最善本と評価されてきた素龍清書本をしりぞけ、曽良旅日記とともに伝来した推敲本を最終決定稿と結論づけたこと(『曽良本「おくのほそ道」の研究』)、蕪村研究では尾形仂著『蕪村自筆句帳』以後の研究史に境涯の俳人像を加えたことが特筆される。
『評伝高野素十』ほか、近代俳句論も多く、実作と研究の両面で師事した門下の一人として、その落胆は筆舌に尽くしがたい。(谷地海紅)
―俳人協会『俳句文学館』第458号(平21年6.5)より転載―
2009年 06月 30日
常世へ18―美しい夜潮
平成十二年八月二日、私は墓参りのために家族と自家用車で北上し、八戸白浜の海幸園という民宿に一泊。そこで廊下の壁に「波の上飛ぶ海霧と海猫と 紅花」としたためられた色紙をみています。民宿は忙しそうにしていましたので、詳細を聞くことはできませんでしたが、もしや流灯の一夜とはこの海幸園ではありませんか。
海霧を来しせめて遺影にまみえたく 海 紅
2009年 06月 28日
世界歳時記の国際比較
ボクの場合は、世界歳時記という茫洋たる言葉をまず消化しなければなるまい。
2009年 06月 28日
この人の一首◆樋口博子
以前『散華』とい歌集をいただいた時にも思ったが、市村宏先生はいったい何十人の歌人を育てたのだろう。その数はボクには把握できないが、中でこの樋口さんがもっとも率直な教え子ではなかったろうか。先生のなんと果報なこと。作品は『三冊目』(六月刊、渓声出版)による。
2009年 06月 28日
この人の一句◆関口祥子
句は『天離る』(四月刊、本阿弥書店)から。しばらくお目にかかっていないので、あとがきを何度も読んだ。そこに「最近とみに、装飾を排し、分かりやすい言葉で内容を深めるように心掛けてきました」とある。
2009年 06月 28日
この人の一首◆木沢文夫
取りかかるべき仕事は机の右に置き、ひとつずつ仕上げては左に移す。しかし、手のかかる仕事も少なくないから、実際は右から左へと簡単にはゆかず、結果として未処理のものが右側の未決の山の底へ底へと沈んでゆく。もらってからずいぶん時間がたったが、今夜この歌集『飛行機雲』(三月刊、渓声出版)を再読する時間が得られてよかった。
2009年 06月 28日
この人の一首◆雨宮潔
必ず丁寧に読むからネ、と約束していたのに、ずいぶん時間がたってしまった。作者の罹った病についてあれこれ考えたことも、その理由のひとつ。作品は『幸福の行方』(三月刊、渓声出版)による。
2009年 06月 28日
この人の一句◆高柳克弘
数日後に高柳さんから句集『未踏』(六月刊、ふらんす堂)を贈られた。なかに、「雪降るや何かと嗚呼の明治の詩」というのがあって、ニヤリとした。もっともこの句は、直接には草田男の「明治は遠くなりにけり」を仕込んでいるのだろうが。
ゆふざくら膝をくづしてくれぬひと 高柳克弘
2009年 06月 20日