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文人とは素人のこと

 22日に連歌の会があった。昼食に出た蕎麦屋で、国文学者のKJ先生と俳人のTBさんとボクとが一つのテーブルを囲んだ。その雑談でBさんが「小説家や詩人などで俳句も作る人は、俳人からのアドバイスにまったく耳を傾けない人がほとんど…」という話をしていた。ボクはふと「文人」、つまり中国で南宗画の歴史を作った富裕な知識階級のことを思い出した。文人という言葉には「素人」という意味が包含されているのだ。素人に既成の枠組みに従わねばならない義理はない。よって「下手」と「自由」とを財産にして、奔放に生きることがゆるされている。小説家や詩人の多くは、短歌や俳句の道のりに芸道の領域があることを承認できないのかもしれない。

〔芸道の領域〕詩歌といふは道なり。道に華実(くわじつ)あるべし。実は道のみちにして、人のはなるべからざる道をいふなり。華は道の文章にして、神のこゝろをもやはらげぬべし。(支考『続五論』)
by bashomeeting | 2009-09-29 15:03 | Comments(0)
 ……何だって本当に良いものは残るというけれど、本当はそうではないんですよ。誰かが守り、携わっていくことで、初めて永遠にあり続けることができるんです。文学者は、いわばそういった感動を、世の中に残していくのが仕事ではないでしょうか。

 これは佐藤浩美著『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』(平十八・四刊、三恵社)の著者あとがきの一節。高村光太郎研究者の北川太一氏がその教え子である佐藤浩美さんに贈った言葉である。佐藤さんはこれを支えに光太郎の研究者になった。まっすぐに伸びた青竹のような美しい言葉に久しぶりに遇った気がする。
by bashomeeting | 2009-09-08 10:43 | Comments(0)
        深悼 村松友次先生                      谷 地 快 一

 なにを書こうか。たとえば、
 村松友次先生(俳号紅花。文学博士)には、昨年七月より病気療養中であったが、平成二十一年三月十六日、東京都清瀬市の病院にて永逝。享年八十八。……
 こんなことは、通信社や新聞社からの問い合わせで何度も答えたし、すでに六月五日号の俳人協会『俳句文学館』第四五八号にも書いた(「村松紅花名誉会員を悼む―虚子敬慕を貫かれた人」)。先生は新聞への死亡広告や型通りの葬儀を望まなかったから、実は対応に苦慮したのだが、新聞の死亡記事は広告と違い、新聞社が独自に判断して掲載するものだから、問い合わせがあれば答えざるを得なかったし、その記事が一人歩きするについては引きとどめるすべはなかった。私はそんなこんなで十分に草臥れ果て、先生の主宰誌『葛』への追悼文は当分無理とことわった。私が書かなくとも、歌人江田浩司君を初めとして、親しい俳人たちが思い出を寄稿し始めているし、俳誌『ホトトギス』も追悼を企画していると仄聞する。また、私に宛てて寄せられる弔意は、差し支えのない範囲で海紅山房日誌(http://kaicoh.exblog.jp/)に公表している。今はそれらを見つめるだけで精一杯なのだ。
 なにを書こうか。五月一日(金)の『東京新聞』朝刊の文化欄に後藤喜一さんが「権威嫌った晩学の大きな成果」という題で先生を偲んでいる。うーむ、先生は確かに権威に立ち向かうところに生きる力を得ていた。そんな一面はある。アンチアカデミズムと言いかえてもよい。
  蜘蛛打つて読み終へし書を肯はず
  冷酒に酔うて親しき古人かな
 芭蕉の『おくのほそ道』研究において、最善本とされる素龍清書本をしりぞけ、曽良旅日記とともに伝来した曽良本を最終決定稿と結論づけたことに、それは端的にあらわれている。この成果をコペルニクス的転回と賛嘆したのは上野洋三氏であった。
 また喜一さんが書く「晩学」とは、三十七歳で東洋大学の夜間部に入学して以後の研究者の道をいう。
  晩学や露の都電に辞書を繰り
  学びて愚働きて貧梅雨長し
 先生は長野県の丸子町(現上田市)に生まれた。進学を望む境遇になかったが、両親に対する担任の説得で丸子農商学校に学び、名古屋銀行に就職する。しかし、一年余りで退職し、満州に渡ってロシア語を学ぶも、病を得て帰国し、愛知県南知多療養所に入院した際に同所の俳句会に加わり、それが『ホトトギス』に投句するきっかけとなった。以後、戦時中に小諸に疎開した高浜虚子の膝元で句作し、戦後はその虚子庵の留守を守り、長野県の代用教員から、東京都の教員試験を受けて伊豆大島の小学校に赴任したが、三年目に一歳半の次女を大やけどで亡くしている。
  汝を悼み壁のちゝろもちゝはゝも
  吾子のゐる空より我に雪霏々と
 教員をしながら大学の夜間部に学ぶという「晩学」の決意には、この次女の死という悲愴なる暗闇がひろがっていた。のちに「残る人生を学問に費すことで、次女の供養にしたかった」と語っている。
  貧乏を妻子にさせて卒業す
  古人みな貧しかりしよ雪の降る
 虚子没後は高野素十に従う。先生は私に〈虚子や素十の謦咳に接することのできない君は気の毒〉と言うのが常であったが、俳文学研究においては〈ぼくを学問の師とせず、井本農一先生の弟子と思って努力しなさい〉と説いて、当時井本研究室(お茶の水女子大学)で行われていた俳文芸研究会に引き出してくれた。
  つばめ来し去年の無学のまゝの我に
  良寛の頤細き涼しさよ
  巣藁引き込まるごとくに世を去りし
  よからずやおたまじやくしの生涯も
  身の上にただ一時雨ありしのみ
 ここまで書いて悔やむ。なにを書くより、こうした句を示すことの方が、先生へのなによりの供養ではなかったかと。
 私は、今後の多くを先生が遺されたものと過ごすことになるが、それは先生が「晩学」で得た幸運のすべてを、私に惜しみなくわけ与えようとされたからである。似た思いで来し方を懐かしんでくれる朋友の便りを待ちたい。                  合掌
               ―『東洋大学日本文学文化学会会報』18 (平21・8・31)より転載―
by bashomeeting | 2009-09-07 21:27 | Comments(1)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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