2009年 11月 30日
時雨の系譜
〔時雨〕
神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける(不知・後撰・冬)
雪は檜皮葺いとめでたし。すこし消えがたになりぬるほど。まだいと多うも降らぬが、瓦の目毎に入りて、黒う丸に見えたる、いとをかし。
時雨、霰は板屋。
霜も板屋、庭。(清少納言・枕草子〈三巻本、新潮日本古典集成は233段〉)
世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな(讃岐・新古今・冬)
応仁の比、よのみだれ侍るに、あづまに下りてつかうまつりける
雲はなを定めある世のしぐれかな(心敬・新撰菟玖波)
其比信濃にて
世にふるは更に時雨の舎り哉(宗祇・萱草)
手づから雨のわび笠をはりて
世にふるもさらに宗祇のやどり哉(芭蕉・虚栗)真蹟懐紙・蕉翁句集草稿・真蹟短冊・ゆきまるげ
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して
旅人と我名よばれん初しぐれ(芭蕉・笈の小文)続虚栗・泊船集・三冊子・真蹟色紙・真蹟画賛
宿かりて名を名乗らするしぐれ哉(芭蕉・真蹟懐紙)
しぐるゝや我も古人の夜に似たる(蕪村・句集)
世にふるはさらに芭蕉の時雨かな(士朗・士朗叟発句集・枇杷園句集・題叢)
宗祇のしぐれ、芭蕉の宗祇、青流の剃髪
世にふるもさらに祇空のやどり宿りかな (淡々・みかへり松)
自 嘲
うしろすがたのしぐれてゆくか(山頭火・行乞記)
2009年 11月 23日
この人の一首◆濱田惟代※
―産経新聞(11月17日)より―
2009年 11月 15日
望郷
「今日、初雪が降りました」
という一行の葉書をくれる友がいた。
いまはこない。
初雪の降るころ解くる頃の墓 海 紅
2009年 11月 15日
雪虫の遠き日々
雪虫のとびたる遠きとほき日よ 北川 京子
2009年 11月 15日
旗は垂れているほうがよい
犬の尻尾は立っている方が安心だけれど、旗は垂れているほうがよい。
旗ははためかないほうが美しい。
子を叱ることむつかしや木の葉髪 海 紅
2009年 11月 14日
選集は編者の作品集◆大岡信・高木晴子
高木 そうですね。勉強になります。
大岡 面白い現象だと思います。でもすぐれた短詩型の作者はみんなそうだったんじゃないかな。
高木 現在は、ちょっと違った方向に行っているけれども……。
大岡 日本の和歌とか俳諧とかそういうものの歴史を辿れば、一流の人は全部一流の選者だものね。
高木 そうですね。裁き手でもあった。
大岡 考えてみると、それが日本の詩歌の独特なところでしょう。(下略)
―「父・虚子、俳人・虚子を語る」 、『国文学』(學燈社 平成3.10)所収―
2009年 11月 14日
欲がない文章◆川崎展宏・大岡信
(略)
川崎 それはもうびっくりしました。先日読みまして、びっくりして今日持ってこようと思っていたのですけど。それから晴子さんの『遥かなる父・虚子』も聞き書きがすごい。お世辞でも何でもないです。またお兄さんの『父 高浜虚子』の文章、あれも八十代の方の文章とは思えないですよ。みずみずしくて。それから章子さんの「春潮」の「佐介此頃」。みんな文章がいい。いいとはどういうことかよく言えないけれど、いってみれば、言葉の配列と間(ま)ですね。どうしてあんなにうまいのか。
(略)
川崎 今挙げた四つの文章に共通するところは、欲がないということですよ。
大岡 そうですね。
川崎 欲がないから。欲がある文章は下がって見えてしまう。
―「父・虚子、俳人・虚子を語る」 、『国文学』(學燈社 平成3.10)所収―
2009年 11月 11日
俳句より文章を学ぶこと◆高木晴子/大岡信
大岡 そうでしょうね。それは非常に正しい教育者ですね。俳句なんていうのは、教えると変な方向に行く可能性があります。
高木 そうです。
大岡 文章がきちんと書ければ、俳句は出来るはずですからね。
―「父・虚子、俳人・虚子を語る」 、『国文学』(學燈社 平成3.10)所収―
2009年 11月 10日
ことば・すがた・こころ
たんぽゝの絮飛ぶ蝦夷の小六月 小竹 こと
あとがきに傘寿とありて小六月 海紅