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  百の骨と九つの穴からできている私の身体の中に、仮に風羅坊と名づけている得体の知れない「モノ」が棲みついている。風羅坊と名づけた理由は、この「モノ」が風に吹かれる薄絹のように感じやすく、傷つきやすいからだ。風羅坊は俳諧が好きで、それで私は一生を俳諧で過ごすことになった。しかし、嫌気がさしてやめようと思ったり、逆に人に勝ち誇ろうとしたり、胸中穏やかだったことはない。それで世間並みの職業につこうとしたり、いっそ仏法を学んで出家しようと思ったことさえあったが、いずれも風羅坊に妨害されて駄目になり、結局は世間で役に立つ才芸一つ身につかず、風羅坊の好むままに俳諧の道を歩いてきた。だが、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶と、世界はそれぞれ異なっても、その根底を支えている力は風羅坊と同じ「モノ」である。それに加えて、これらの文芸や技芸は天地自然に従順で、四季の移り変わりを友とすることで共通する。だから、花を見れば「モノ」も花に感じ入り、月を思えば「モノ」も月に魅せられるのだ。「モノ」に映る姿が美しくなければ野蛮人と同じである。つまり、「心」が美しくなければ鳥や獣と同じである。だから、野蛮人や鳥獣の境地を離れて、天然自然の推移に従順になり、その原点に立ち戻れとみずから言い聞かせるのである。

〔笈の小文〕 松尾芭蕉の紀行文。貞享四年(一六八七)八月に、鹿島に隠栖中の仏頂和尚を訪ねる旅(『鹿島詣』)をした二ヶ月後に、上方に向けて旅立った際の紀行。貞享四年(一六八七)十月二十五日から同五年四月二十三日に至る。ただし、芭蕉自身が完成させたものではなく、芭蕉の残した断片を門人乙州が集めて編集したもの。尾張・三河・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て須磨・明石に及ぶ。

〔風羅坊〕 『笈の小文』冒頭に掲げる芭蕉の芸道観。本文は以下の通り。

 百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふ(う)て、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、これが為に破られ、つゐ(ひ)に無能無芸にして只此一筋に繋る。西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。 (『笈の小文』宝暦六年刊)

by bashomeeting | 2010-01-23 20:39 | Comments(0)

読者のないブログ※

 今日は二年生のゼミの最終日。すこしあらたまって、〈来年はそれぞれ選んだ新しいゼミで、卒業論文を意識した努力をするのだよ〉と結んだ。いつも、わたしの発問の有無にかかわりなく発言してゼミを明るくしてくれるMeguが言った。
 …… 先生のブログを読んだけど、ちっとも意味がわからなかった!
嗚呼。
by bashomeeting | 2010-01-21 03:38 | Comments(0)
・日時:1/15(金) 18:30~20:30
・場所:東洋大学 白山キャンパス 6号館 6409教室
・参加者:学生4名  教員2名

活動内容:

①「ミニゲームを覚えよう!」
今回は、サークル員である戸田が、「命令命令ゲーム」というミニゲームを紹介しました。まず、戸田に見本を見せてもらい、次に、戸田の指導の元、参加者全員で練習をしました。そして、最後に、前に立って、一人一人発表を行いました。参加者全員が前に立って発表をしてもらうことができたので、今回紹介したゲームを
身につけていただけたのではないかと思います。

②「『授業の腕を上げる法則』の演習」
今回は、先生に、10個ある授業の腕を上げる原則が、どのように実際の場では活用されているのかを事例を示しながらご指導していただきました。 「校庭の石を児童・生徒に拾わせる」という場面での指示の出し方の例をいくつか紹介していただき、それらの各指示の中には、何個の原則が意識されているのかを考え、予測していくという活動を行いました。

③「学生による模擬授業」
 小学一年生対象の算数「足し算の計算」の模擬授業をしました。参加者方々に、教師側がどのような指示を出していたのかを、先程習った原則を意識して聞いてみるということに挑戦していただきました。授業後に、学生に気づいたことなどのコメントをしてもらい、次に、先生方にコメントをいただきました。

④「道徳の授業づくりを学ぼう!」
この講座では、感動を生み出す道徳の授業には、どのような工夫・ポイントが必要になるのかについて、先生にご指導していただきました。
今回は、「ポール・ポッツさんの映像資料」を用いて、「夢を叶えるために必要なこと」をテーマとした道徳の授業を見せていただきました。そして、その授業の作る上でポイントを教えていただきました(1:力のある資料を使うということ、2:順序と組み立てを工夫すること)。


■次回の活動(2月の活動)について

日にち:2/26(金)
場所:東洋大学白山キャンパス
by bashomeeting | 2010-01-21 03:24 | Comments(0)
 和菓子にも飴細工にも見える臘梅が、庭で今を盛りと芳香をはなっている。八、九年前、長瀞町の宝登山に登った際に買い求めた苗木が育って、毎年目を楽しませてくれているのだ。
 臘梅をそれと認識した最初は井本農一先生のお宅の庭である。正月二日は恒例になっている年賀の日で、鷺宮のお宅には全国から門下があつまって新春を寿いだ。臘梅も年に一度の約束のように咲いていた。先生がぽつりと臘梅にまつわる思い出をされたこともある。だから臘梅といえば、すぐ鷺宮の早春の庭がうかぶ。わが草庵に臘梅をほしく思ったのは、こうした懐旧の情によるのであろう。
 言うまでもなく、この懐旧の情はボク一人のもので、臘梅それ自身とは関係がない。臘梅は四季との連関において、臘梅としての意味をまっとうしているだけであって、見つめているボクが何ゆえに目を潤ませているかなど知ったことではないだろう。ボクの懐旧は臘梅にふれてわき起こるにはちがいないが、臘梅自身の生活や意味を超えてしまっているのだ。そんなわけで、このところボクと同じように臘梅をながめている家族とも、ボクの懐旧の情はかかわらない。彼らは彼らなりに、この臘梅との付き合いを重ねて、彼ら自身の情景を脳裏に刻み込んでいるだろう。

 昨年の七月にこんなことがあった。句会の前説にミニレクチャーを頼まれて、「心は焼けない」という題で話をした。これは稲澤サダ子句集『月日ある夢』にある作者自身の言葉である。
 講話のむすびに、この句集から抄出した数十句を示して、参加者に好きな句を選んでもらい、それぞれ感想を述べてもらった。Miyukiさんの番が来たが、彼女は〈一日をただ…〉と気に入った句を読み始めて言葉をつまらせ、そのあとが出ない。それは、
  一日をただ玫瑰とありし旅
という句だが、周囲の友人の中には「玫瑰」の読み方をドワスレしたのかもしれないと気づかい、〈ハマナスよね〉とささやくように教える者もあった。むろんMiyukiさんは玫瑰の読み方を忘れたのではない。しばらく気持ちを整理するようにして、彼女は言った。

 ……私は北海道に育ちましてネ、ハマナスといえばオホーツクに続く砂浜の記憶です。子ども心に真っ赤に群生する姿は不気味で、その色のままに熟した実のかたまりもとても怖く恐ろしいものでした。今でもその気持ちにかわりはありません。

 この感想は、作品の表現の一部が、全体の意味を超えて、読み手の目に映るもの、その鼻や口や耳に訴えかけてくる記憶を呼び覚ましたものである。だから、作品の解釈としては不十分であろう。だが、詩歌の魅力は、実は意味を超えた、こんな刺激が支えていることも少なくない。けっして、過不足なく作品を解釈したり、作者の人生を解き明かしたりする趣味にのみあるわけではない。

  臘梅の清貧といふ固さかな   海 紅
by bashomeeting | 2010-01-18 17:05 | Comments(0)
   『俳句教養講座』のススメ    片山由美子

 この講座は、つぎのような俳句実作者に薦めたい。
・現代俳句と古典は別もの。芭蕉を知らなくても実作に支障はないと思っている人。
・七夕はなぜ秋なのか疑問に思っている人。
・題詠というのはそもそも何か。いつから行われてきたのかを知りたい人。
・「切れ」とは、何から切るのかを考えたことがない人。単なる間だと思っている人。
・「切れ」は上五がもっともだいじだと思っている人。
・取り合わせるものは遠ければ遠いほど面白い。つまり、俳句は二物衝撃だと信じている人。
・写生こそ俳句であると思っている人。
・芭蕉の「古池や」の句をどう読んだらよいか分からないという人。
 いくつかは心当たりがある、という人は案外多いのではないだろうか。一つでも該当したら、講座のどこかを読んでみてほしい。必ず目から大きな鱗が落ちるはずである。編集に当たった私自身、きわめて多くのことを学んだ。 

   古典と現代との架橋に……   谷地 快一
 
 大学のゼミで出合った連句(俳諧の連歌)の世界に魅せられて、詩人気取りの青年期と訣別した。やがて「俳諧を研究するなら、俳句を作らなければダメ」と誘われ、俳文学の研究とは別に句会にも精を出すことになる。それから三十数年が過ぎたが、研究の場で実作が話題になることはなく、句会で近世俳諧に話がはずむこともまれであった。俳文学会に入会する俳人がいても、明治時代と江戸時代をまたぐ問題提起の不足ゆえに、いつしか足が遠のいてしまうように思われた。
 だから『俳句教養講座』を刊行すべく、平成17年に始まった片山・筑紫・宮脇三氏との勉強会は刺激的で、宿題を出したり出されたりする中で、ふいに小鳥が飛来するような至福の時間を何度も味わった。
 昭和25年に結成された俳文学会は、それまで棲み分けて来た俳句と雑俳を連歌や俳諧の流れに位置づけ、句作への渇きと研究への渇きを一体化しようという挑戦であった。この『俳句教養講座』がそうした古典と現代との新しい架橋になることを夢みている。

   教養は不可欠な知識       筑紫 磐井

 俳句雑誌といえば戦前の改造社「俳句研究」(昭和9年~19年)を思い出すように、俳句講座といえば同じ改造社の『俳句講座』全10巻(昭和7年~8年)を思い出します。これは、当時著名な俳諧研究者と実作者が協力してさまざまな観点から俳句を論じたシリーズでした。この時代、一般社会にもアカデミックな雰囲気があふれ、アカデミアも実社会への関心にあふれた時代であり、研究者と実作者の協力が抵抗なく促された時代でした。戦後60年経った今、これらは極端なほど分離し、知的批評のない実作と、実作へのつながりのないこまごまとした課題の研究に向かいかねない状態となっています。季語の問題、切れの問題、ジャンルの問題、俳句性の問題は両者の協力がなくては明らかにすることができないはずです。今回のシリーズを「教養」と銘打ったのは、いたずらに知識や経験を誇ることでなく、知に裏打ちされた実作を可能とする講座としたいと考えたからです。


   詩の言葉に関心のある読者に  宮脇 真彦

 俳句は、なんといっても短い詩である。短いがゆえに、言葉はさまざまな働きをして、詩的時空を立ち上げてくる。17音の日本語が、どんなメカニズムによって詩的世界を形作るのか―、その一点について、いろいろな観点から考えてみたのが、この講座である。
 俳句の実作者にとっては、自分の言葉を意識的に使うための武器ともなりうる理論的背景を提供してくれるだろうし、また研究者にとっては、自身の関わっている研究対象へのアプローチの指針として、さらなる研究の深化を促すものとなるにちがいない。だが、それ以上に、俳句の言葉に関わる様々な問題を論じたこの講座は、いままで俳句とあまり関わりのなかった一般の読者に、詩の言葉についての理解を、さらには日本語の可能性を示すことになるだろう、と期待している。俳句は、その短さによって、日本語を鍛え、文学の裾野を押し広げ、ひいては日本の文化を形作ってきたからである。

                          ―角川学芸出版HPより転載―
by bashomeeting | 2010-01-14 13:45 | Comments(0)
俳句を知れば、日本の文化と日本人の心がわかる!

■第1巻『俳句を作る方法・読む方法』

【1】俳句を作ること
俳句の作者 山下一海
古典詩歌における「わたくし」 宮脇真彦
俳句に何を詠んできたか 仁平勝
和歌・俳諧(古典)の題詠 渡部泰明
短歌の題詠 今井恵子
俳句の題詠 本井英
〈物〉を詠むということ 藤田真一
近世絵画に見る写生 佐々木丞平
写生の詩学―-美術から文学へ 松井貴子
俳諧における虚構と現実――「老が恋」と「秋の哀」をめぐって 玉城司
俳句における虚構と現実 中岡毅雄
挨拶・即興の詩学――時・場・もの 堀信夫
挨拶・即興の詩学――俳句の場合 井上弘美
【2】俳句を読むということ
選者という読者――俳諧を中心に 佐藤勝明
選者という読者――高浜虚子を中心に 片山由美子
俳句的ということ 谷地快一
「古池や蛙飛こむ水の音」をめぐって
 はじめに 宮脇真彦
 幕末・明治期の解釈 越後敬子
 「山吹や蛙飛びこむ水の音」 深沢眞二
 「蛙」の伝統と革新 楠元六男
 「古池」とは何か 矢島渚男
俳句における批評の役割 高柳克弘
誤読の俳句史 櫂未知子

■第2巻『俳句の詩学・美学』

【1】 定型がもたらすもの
五七五という装置 仁平勝
切字の詩学 川本皓嗣
俳諧における切字の機能と構造 藤原マリ子
俳諧のことばとイメージ 楠元六男
類句と類想――芭蕉を中心に 母利司朗
【2】俳句のレトリック
俳諧のレトリック――余情・やつし・本歌取り 尼ケ崎彬
俳句における文語の問題 山西雅子
短歌における文語の問題 安田純生
俳句における引用 三村純也
俳句と漢詩文 日原傳
取合せの詩学 谷地快一
前書の機能 金田房子
【3】季語・名所・無季
地名がもたらすもの 鈴木貞雄
季語と季感 筑紫磐井
無季俳句をどう読むか 櫂未知子
【4】俳句とは何か
俳味と滑稽 中森康之
俳諧の余情――中興期を軸として 谷地快一
和歌の思想――俳句を考えるために 錦仁

■第3巻『俳句の広がり』

【1】他ジャンル文芸との交響
現代詩と俳句 藤井貞和
短歌と俳句――俳句らしさを考える 三枝昻之
川柳・雑俳と俳句 小池正博
【2】様々な俳句文化様
日本文化における「付合」の意義――あしらいの心 宮脇真彦
「見立て」「やつし」という方法 加藤定彦
娯楽としての俳句――面白さの駅伝組織 福永法弘
【3】季節という枠組み
季寄・歳時記という書物 寺島徹
明治歳時記――太陽暦受容の問題点 越後敬子
類題句集の世界――俳諧的アンソロジー 東聖子
【4】媒体と場
俳句ジャーナリズム 筑紫磐井
句集 岸本尚毅
撰集・句集 深沢了子
奉納・法楽・追善 綿抜豊昭
短冊・懐紙・画賛・一枚摺 伊藤善隆
【5】時代・社会と未来・現代
新派・新傾向・自由律・新興・前衛 秋尾敏
時事・社会性・風土 高野ムツオ
俳句の国際化――海外詠と外国語俳句 星野恒彦
俳句の著作権問題 筑紫磐井

               ―角川学芸出版HPより転載―
by bashomeeting | 2010-01-14 13:34 | Comments(0)
「旧歳は牛に騎りて去り、新春は虎に跨がりて来たる」。この対聯はいろはさんが教えてくれた。さて今年の虎はどんな春を乗せて来たのやら。暮には、毎日メジロなどが訪ねて啄む、山茶花の花を掃きながら虎の来訪を待ちました。


     平成二十二年歳旦

  巫女溜りより御降りへ二三人     海 紅
by bashomeeting | 2010-01-01 10:31 | Comments(2)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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