海紅山房日誌

kaicoh.exblog.jp
ブログトップ

<   2010年 02月 ( 11 )   > この月の画像一覧

 星は闇の深さを見せるために光り輝いているにちがいない。千鳥の名所である星崎(名古屋市南区)はそんな景色を容易に思いえがけそうな名前である。だが「星」という文字は、語源的に「縁(ふち)」とか「藤」という言葉の仲間であると習っていて、ある中心部から離れた断崖とか台地を意味し、藤の花のように垂れ下がるというイメージであって、字面通りの夜空の星をさしてはいなかったようだ。断崖や台地とすれば、その多くは脇に川が流れていて、下流は海につながるはずである。その闇に千鳥の声がして、これまた闇の深さを教えているのだろう。ただし上代の千鳥、平安中期(1100年代)ころまでの千鳥は「たくさんの鳥」の意で、しかも川千鳥であるとのこと(片桐洋一『歌枕歌ことば辞典』)。そののち、海の千鳥、しかも冬の景物として歌語化し、冷えびえと冷たい情趣が定着。とすれば、冷たい空気もまた、この句の闇の深さを強調するものと見てよいだろう。

 余談ながら、逆に言えば、闇は星や千鳥の声の美しさ、そしてキリリとした冬の空気の厳しさを教えてくれるものであろう。その美しさは凛然たるものにちがいない。芭蕉がその凛然たる闇と向き合うのが、延宝八年(一六八〇)三十七歳の冬、つまり「ここのとせの春秋市中(小田原町)に住み侘びて、居を深川(江東深川村)のほとりに移す」(『続深川集』)以後のことなのだろう。

  
  
by bashomeeting | 2010-02-24 05:35 | Comments(0)
 かげろう金曜会は『笈の小文』を読み始めた。冒頭は「百骸九竅の中に物あり」と始まる、あの高邁な文章である。この名文が「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」と結ばれていることは御承知の通り。だが、「造化」はどのように説けばよいか。現代では殆んど目にしない言葉と思うので、天地を作り出したもの、造物主、あるいは造り出された宇宙、あるがままの世界、自然(じねん)、神などと手探りで説明した。ところが、ボクより少し上の世代である聴講者にボクの骨折りは徒労で、みんな納得済みという表情である。その理由を尋ねると、「造化」の世界は武島羽衣作詞の「天然の美」という歌そのものだからという。この歌は長く流行していたので、曲を聴けば先生も思い出すはずということだった。数日後、Chizukoさんがその歌詞と譜面を送ってくれて、添書に〈「天然の美」は記憶違いで、「美しき天然」が正しい。加齢と共に物忘れが多くなり失礼した〉とある。こうして調べる手掛かりを得たので、少し勉強をしたところ、「天然の美」という名もあることがわかった。Chizukoさんの記憶は確かだったのだ。
 曲を聴いてみたが、記憶にあるような、ないような、聴いたことがあるような、ないような、チンドンヤの曲に似ているような、似ていないような微妙な印象である。しかし、その歌詞は確かに「造化」の世界を描いてあまりあると思う。Chizukoさんたちの理解はきわめて正しいと思う。

〔美しき天然〕 武島羽衣作詞・田中穂積作曲。明治35年(1902)にできたワルツ風の唱歌で、「うるわしきてんねん」と読む。サーカスやチンドンヤのジンタ(吹奏楽)で昭和に至るまで人口に膾炙し、「天然の美」の名もある。歌の誕生は、田中穂積(私立佐世保女学校の音楽教師)が九十九島の美を歌に創作したいと考えて、武島羽衣の詩に出合ったことによる。


    美しき天然

1,空にさえずる 鳥の声
  峯(みね)より落つる滝の音
  大波小波どうどうと
  響き絶えせぬ海の音
  聞けよ人々面白き
  この天然の音楽を
  調べ自在に弾きたもう
  神の御業(みわざ)の尊しや

2,春は桜のあや衣(ごろも)
  秋はもみじの唐錦(からにしき)
  夏は涼しき月の絹
  冬は真白き雪の布
  見よや人々美しき
  この天然の織物(おりもの)を
  手際見事に織りたもう
  神のたくみの尊しや

(3) うす雲ひける四方(よも)の山
  紅(くれない)匂う横がすみ
  海辺はるかにうち続く
  青松白砂(せいしようはくさ)の美しさ
  見よや人々たぐいなき
  この天然のうつし絵を
  筆も及ばずかきたもう
  神の力の尊しや

(4) 朝(あした)に起る雲の殿(との)
  夕べにかかる虹の橋
  晴れたる空を見渡せば
  青天井に似たるかな
  仰げ人々珍らしき
  この天然の建築を
  かく広大に建てたもう
  神の御業(みわざ゙)の尊しや

※附記 武島羽衣の住居は現在の東洋大学正門の位置にあった。大学院に入った年に村松友次先生のお手伝いで『猿みのさがし』(昭和51 笠間選書60)という『猿蓑』の古註を翻刻出版した。それを指導教授である吉田幸一先生に呈上すると、すぐに凡例を御覧になって〈武島羽衣旧蔵本ですか。武島さんの住居は今東洋大学の正門になっているところでした。なにかの御縁かもしれませんね〉と喜んでくださった。ボクはすぐに凡例に目を通すという行為に感動した。文献学者としての謹厳さをまのあたりにする気がしたからである。
by bashomeeting | 2010-02-23 19:15 | Comments(0)
 一月のかげろう金曜会で、芭蕉の『鹿島詣』を読み終わって、さて帰途につこうとすると、君子さんが話しかけてきた。先生は藁布団をご存じですか、というのである。
 『鹿島詣』は帰途、潮来の本間道悦(自準)宅に一泊、「帰路自準に宿す」と前書きして、次のような付合(三句)で結ばれている。

  塒せよ藁干す宿の友雀      主人
    秋をこめたるくねの指杉    客
  月見んと潮引きのぼる舟とめて 曽良

     貞享丁卯仲秋末五日

  君子さんは発句の解説を聞いて、芭蕉が寝た蒲団は藁布団に相違ないと思ったのであろう。私が、藁蓋・円座(わろうだ)なら習ったと答えると、昭和に入っても、つまり彼女が子どものころまで普通に使っていた蒲団に藁布団があると教えてくれた。後日あらためて電話をくれて、『広辞苑』に立項されていることや、新潟の姉は屑布団とも言っていたとか、干した藁布団の上に綿布団を敷いて寝たとか、畳めないので春には燃やしたとか、まことに丁寧に教えてもらった。しかし、今ひとつイメージがつかめないので、会員全員がいる二月の会でこの藁布団を話題にした。すると一人の男性が黒板に図解して、袋にした布の真ん中を開いて藁を詰めることや、藁の茎の部分は縄を綯うなど、ほかに使い道があるので、蒲団は本当に屑のところを払い落として詰めた。だから屑布団ともいうのだと教えてくれた。生まれ育った土地柄で異なるだろうが、この会のメンバーは殆んどあたたかい藁布団に眠った経験があると思いますよ、と彼が付け加えると、うしろの席で年配の女性がニヤリと笑った。
 手もとの歳時記類に立項されてはいないが、「藁干す」は発句の季をなす秋の言葉であった。「藁布団」は冬季とされるが、「貞享丁卯仲秋末五日」つまり貞享四年(一六八七)八月五日は今の暦で言えば九月の十一日、稲刈り真っ盛りのこの季節は、藁干す作業が進行していてもふしぎはない。芭蕉は自準から実際にあたたかい藁布団のもてなしを受けたのではなかろうか。とすれば、帰途に自準宅に泊まることは予定の行動であり、先方に事前に知らされていたことになる。詳しく調べていないが、今まで芭蕉が藁布団に寝たという解説はみない。実際に寝たと解する方がずっとよい句になる。

 この発句の「藁干す」を雀の巣藁としてしか解説できなかったことを恥じる。そして、それをたしなめてくれた君子さんに感謝する。研究者は〈粗末な住居と道悦が謙遜したのだ〉とか、〈芭蕉一行への挨拶の心〉とか解説して済ませるだろうが、実際に日に当てた藁布団に芭蕉は寝たのだという踏み込んだ解釈によって、この発句はずいぶんと佳句になった。

〔藁蒲団〕 『図説俳句大歳時記』に「藁衾(わらぶすま)」を類題として次の解説がある。「紺布などを外被として、なかに藁を打って柔らかにした物や藁の屑(くず)などを詰めた敷き布団。中世あたりから用いられていたものであろう。藁蒲団は貧しい者のみが使用する品のように考えられがちだが、綿が貴重だった時代には一般の使用品であった。いまでも長野県などの農家では、中農以上の家でも使用しているところがある。また病人用の藁蒲団は季節にかかわらず使用される。→蒲団・衾」(鈴木棠三執筆)とある。例句は「わらぶとん雀が踏んでくれにけり 一茶」のみ。この一茶の句も逸品である。
by bashomeeting | 2010-02-23 15:42 | Comments(2)

山下一海先生葬送

 十五日(月)に山下一海先生逝去。喪主である奥さまの挨拶によれば、脳梗塞とたたかう中で肺炎に負けたという。本日二十日(土)、国分寺の照応寺(きわだ斎場)の告別式で、大学院生時代からの御厚情にお礼申しあげ、最後のお別れをしてきた。先生の講義を一年間うけたのだと若き時代をふりかえるひとり、長生きするのがいけないような、申し訳ないような気持ちだと言う某先生と悲しみを分かち合った。思いがけず、A先生にお目にかかる。何年ぶりであろうか。杖をつく先生に教え子のBさんが付き添われていた。帰途はK出版のHさんが駅まで自家用車に乗せてくれた。

  春風の古人の如く葬列に   海 紅
by bashomeeting | 2010-02-20 21:56 | Comments(0)
 hirokazu氏が、一茶に新出句というニュースを教えてくれた。句は次の由。

  猫の子が手でおとす也耳の雪   一茶

 新聞(毎日JP)に、小布施町の民家で発見された文政六年(一八二三)十一月十二日、一茶六十一歳の手紙にあるという。記事は、一茶には動物の句が多いが、実際に彼は猫が好きだったことを指摘。『文政句帖』の行動記録と一致するという矢羽勝幸さんのお墨付きのようだから、真贋に問題はない。句風は芭蕉や蕪村の向き合った和歌伝統から切れている点で、一茶そのものという印象。近代俳句の予兆を思わせる句である。矢羽さんの作った『一茶大事典』(大修館書店)によれば、一茶が文政六年に小布施に泊まったのは八月二十五日、九月六日、十一月六日七日、同八日九日で、十二日は六川泊。六川も今の小布施町都住にあたるから、遠いところに出した手紙ではない。俳人間を渡り歩くために、舟の用意を頼んだ手紙のようである。

 ボクは小布施に二度行った。一度は大学院生のころ、万葉集講義の市村宏先生の誘いで。先生の御実家に泊めていただき、北斎漫画や天井絵、一茶の資料などを見た。二度目は俳文学研究会の一泊研修会だった。
by bashomeeting | 2010-02-18 21:00 | Comments(0)
 音楽もまた言葉である。気の塞いでいた二十代を支えてくれたものに、ジャズと落語があるが、ジャズは言葉そのものだと思った。落語が音楽かどうかはわからない。いちど大人の子守歌ではなかろうかと思ったことはある。

     俳句をはじめしころ
  探梅の案内川とは頼もしや      海 紅

 裏高尾にこんな名前の川が流れていた。
by bashomeeting | 2010-02-18 12:53 | Comments(0)
 旧臘法事で雪の郷里に戻った。その際の法話の一節が耳について離れない。
 …… 死んだ人には何事も手遅れである。
 まことにその通りであるが、これは、ひごろ浄土思想を説いている遁世の人が、法事の席で言うところに深遠なる意味があろう。よく生きよというのである。
 仮に天があるとして、天命は人の力の及ばざるところともいう。人が行なうべきかぎりを尽くすのが人の道(humanity)と言ったのは宣長であったろうか。落葉をかいて堆肥をつくるように、みな寄せ集めてかみしめるべきことば。芭蕉も、「諸善諸悪皆生涯の事のみ、何事も何事も御楽可被成候」(元禄三年七月十七日牧童宛)という。欲するままにという意味ではない、たぶん。念のため。

〔牧童〕 立花氏。研屋彦三郎。加賀(金沢)の人。『おくのほそ道』の旅で芭蕉が世話になった北枝の兄で、加賀藩の御用(研師)を勤めた。芭蕉に師事する前は宗因に俳諧を学んだと伝える。
by bashomeeting | 2010-02-18 12:40 | Comments(0)
 俳諧を学んできたせいで、絵に詩文を添えるとか、逆に詩文に絵を描くとか、いわゆる画賛の世界と縁が深くなっている。不動産情報誌『アットホームタイム』表紙に四季の近世俳句を紹介し、ひらいみもさんのイラストをいただいてエッセイを書いたり、NHK教育TV「フォト五・七・五」や「日曜美術館」のお手伝いができるのも、この画賛の文化に触れてきたおかげである。
 十五日、この世界に詳しいTさんと話ができた。すこしお酒が入って勇気が出たので、最近考えたことを話してみた。

 …… いままで、絵と詩文とは異なるジャンルと考えていたのですが、だんだん同じものではないかと思えてきたのです。つまり、文字もまた絵なのだと。だから、絵と詩文を合わせる際には、フォント(字体・書体)や詩文の配置に綿密な心配りが求められる。それは創造の世界に等しいのではなかろうか。


 
by bashomeeting | 2010-02-17 11:07 | Comments(0)
 バンクーバーの冬季オリンピック映像で、ゴールにたどり着いた選手が、国籍を超えて抱き合い、お互いの背中を叩いて、相手を讃え合っている。美しいと思った。『おくのほそ道』の終章で「蘇生のものにあふがごとく、且よろこび、且いたハる」のも同じではなかろうか。人の世はこんなふうに健闘を讃えることに尽きるのではなかろうか。それで十分ではなかろうか。

  大試験終へし坂道いぬふぐり   海 紅
by bashomeeting | 2010-02-17 08:06 | Comments(0)
     古池の風景                  谷 地 快 一

 古池論争が再燃している。蕉風開眼、つまり松尾芭蕉が独自の作風を悟った句と喧伝される「古池や蛙飛こむ水のおと」(『蛙合』)という句をめぐる新解釈が世間を賑わせているのだ。たくさんの芭蕉句に感銘しながら、この句ばかりがいつまでも謎めいて問題視されるのは不可解だが、論者はそれぞれ明晰な論理と想像力を駆使しているから、その論争に異議を唱えるのは容易ではない。そんなときは創作の現場に戻るに限る。

    一番
     左                 芭 蕉
  古 池 や 蛙 飛 こ む 水 の お と
     右                 仙 化
  い た い け に 蝦(かはづ) つ く ば ふ 浮 葉 哉

 貞享三年(一六八六)『蛙合』の巻頭にこうある。「古池や」の句は古池のよどみに飛びこむ蛙のかそけき音に閑寂を聞き、「いたいけに」の句は作者の心情を蓮の浮葉に揺れてうずくまる小さな蛙に投影させて、両者に優劣がない。それだけである。それだけで十分にあわれがある。なお贅言をゆるされるなら、蛙は蓮の浮葉から飛びこみ、いたいけな蛙を乗せる蓮の浮葉は古池の水面に揺れているという蛇足を加えておこう。
 『蛙合』は句合(くあわせ)、つまり歌合に倣って二句を左右に番えて優劣を競う俳書だが、俳諧の第一の目的は相互親和にあるから、勝敗は二の次である。その心は『古今和歌集』仮名序を踏まえた「此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち、下におくの品(しな)、をのをのあらそふ事なかるべし」という判詞(はんし)、つまり優劣を説く言葉にも明らかで、本書の目的は句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試みといってよい。
 この場合の和歌伝統の美学とは、山城(京都府綴喜郡)の清流である井手の玉川を舞台に「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)に代表される河鹿と山吹との取り合わせのはなやさかさである。そこから解放されること、すなわち前時代である天和期(一六八一~八四)の流行、要するに漢詩文の教養や荘子的思想を、自然の直感的認識によって形象化することが貞享期(一六八四~八七)俳壇の趣味であり、当時の芭蕉一派が求める風流であった。だから、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という中七以下を得た際に、其角が提案した「山吹や」という上五が採用されなかったのは至極当然といってよい。井手の玉川という流れの早い渓流では「蛙飛びこむ水の音」も聞こえず、波紋を生ずることもないだろう。寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)は、

  古 池 や か は づ 飛 こ む 水 の 音     はせを
    芦 の わ か 葉 に か ゝ る 蜘 の巣     其角

という師弟の付合(つけあい)を収載するが、其角の脇句は「山吹や」を提案したときと打って変わって、前句が発見した静謐さを裏打ちする春景を添えてみごとである。山吹や井手の玉川では、芦の若葉や蜘蛛の巣は想起されなかったであろう。
 もし「古池や」の句の平明さが蕉風開眼理解を妨げているとすれば、わたくしどもは天和期以前の理知的な俳諧という故轍を、知らないうちに踏み直しているのかもしれない。
               ―『東洋通信』第46巻9号(2009.12.1)より転載―

【附記】
1,左右映発という句合のおもしろさから、芭蕉の句の蛙を右句の浮葉から飛びこませるという一景を趣向したが、むろん浮葉でなければならぬ理屈はない。創造(create)された蛙にもかかわらず、飛びこむ場所はどこかという議論にかまけて、この時期の芭蕉がとらえはじめた「閑寂」という拠りどころを見失われるのは不本意なので、ここに附記する。
2,文中の判詞「をのをの」の原文は踊字であるが、横書きの見ばえはよくないので、例によって改めている。
by bashomeeting | 2010-02-06 17:14 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


by bashomeeting