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 俳諧という世界に遊んでいると、風流という言葉によく遭遇するが、その語義はまことに恣意的で曖昧な例が少なくない。それで、昨年「流行と風流と」(2009-10-18 12:58 )という雑文を書いたりした。その際、近世には歌謡と同じ意味で、風流という言葉を用いている(楠元六男著『俳諧史のかなめ 佐久間柳居』新典社、15頁)という記事があったことを思い出した。それ以来気になっているが、用例を求める努力をしていない。その程度に忙しく、その程度に怠惰な日々を送っている。
by bashomeeting | 2010-06-27 15:16 | Comments(0)

 新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集』②(小学館)の87頁、『おくのほそ道』〔16〕の頭注24、「月の輪の渡し」の解説に「北上川の渡し」とあるのは「阿武隈川の渡し」の誤り。これはアヤコさんの教示による。
by bashomeeting | 2010-06-26 19:47 | Comments(0)

 金曜日は会議ひとつのために出かけたせいで、終了後の気持ちにゆとりがあって、文京区白山上の喫茶店「貴苑」に立ち寄った。帰りがけに箸をくれたので、その理由を聞くと、今年は開店三十五周年で、その記念だという。しばらく東京を離れて疎遠の時期もあったが、つまり私は「貴苑」のコーヒーと三十五年のつきあいを重ねたことになる。あの席で、今まで何本の煙草に火をつけただろうか。


     貴苑の三十五周年を祝ふ

   小窓から青葉をながめ読書もし   海 紅
by bashomeeting | 2010-06-26 19:10 | Comments(2)

新しい季題◆風鈴

 通勤の車中で、今日の「蕪村とともに暮らす」という講義の題を風鈴と決めた。ところが、研究室に着いて蕪村全集を見ると、風鈴の句は一句しかない。芭蕉全集にはひとつもない。さて困った。
 蕪村の一句は次の通りだが、感動の焦点が風鈴を逸れて、決してできのよい句ではない。ますます困った。

  風鈴や花にはつらき風ながら  遺草・年次未詳

 風鈴は室町期に中国から日本に入った。とすれば、近世に佳句が少なくても致し方あるまい。そう考えて、主に近代俳句の中からその味わいを探った。実体としての涼しさではなく、涼味・涼感の世界をわかってもらおうとした。

  風鈴の空は荒星ばかりかな    芝 不器男
  風鈴の短冊反りしおろしたて    柴原 碧水
  風鈴をしまふは淋し仕舞はぬも  片山由美子

 話しているうちに、子どものころに町をまわってきた金魚売りや子供たちを呼び集めていた紙芝居、家々を訪ねては仕事をもらっていた傘の直しや包丁研ぎのことを思い出した。また、滑り台の列に並んだり、昼寝覚めの空気が苦手で、中退してしまった幼稚園のころを思い出した。

  風鈴や眼ひらきて魚並ぶ         海 紅
by bashomeeting | 2010-06-24 12:52 | Comments(0)

 六月十八日(金)の「かげろう金曜会」で、『更科紀行』を読み終えた。その際、

  ひよろひよろと尚露けしや女郎花

における姿態のなまめかしさは、この木曽路に限られたものではなく、本来女郎花が持ち合わせているものである。したがって、この句を木曽路に特化して解釈する必要はないだろうと話した。同様に、

  身にしみて大根からし秋の風

における大根を〈木曽路には「からみ大根」と称する味のからい大根を産したという〉(新潮日本古典集成『芭蕉文集』富山奏)というふうに、この地に特別なものとして解説するのはいかがなものか、とも話した。辛い大根は信濃に限ったものではなかろうと思ったのである。旅に食した大根の辛さは秋風同様に身体に応えたというふうに読めばよろしいと思ったのである。座談の時間になって、信濃育ちのケサイさんが話してくれた。〈「からみ大根」という名は最近のものです。秋大根は辛いものでした〉。
 ちなみに季題にいう大根の季節は冬である。
by bashomeeting | 2010-06-19 08:06 | Comments(0)

 俳句は、本来、名を求める文芸様式ではないのだ。作品が愛誦されたら、もう作者は誰でもいい。ただ、その句に近づくには、私のささやかな経験では、まず名を求めて懸命に努め、いつかその目的と結果を忘れ去った時、生まれるような気がする。これこそ俳句の醍醐味と私は思いたい。
                  ―飯田龍太「詩は無名がいい」より―

 詩や小説を書き始めて、その先に未来を描いていた若いころには許せなかったが、今ならわかる意見のひとつに、龍太氏のこの文章がある。昭和四十六年三月二十日の『毎日新聞』に寄せた短文であるが、ボクは『現代俳句集成』別巻二〔現代俳論集〕(昭和58.8、河出書房新社)によって読んだ。
by bashomeeting | 2010-06-14 20:57 | Comments(0)

 高橋進氏の「客観写生か花鳥諷詠か―高校の俳句の授業で―」(俳人協会「俳句文学館」470号、2010.6.5)を読んだ。その主意は、〈虚子は《主観写生》から《客観写生》への考えを深め、昭和に入ってすぐに《花鳥諷詠》の境地に至った〉。よって、昭和以降の虚子の句を《客観写生》と説明するのは不適切で、あくまで《花鳥諷詠》とすべきだと結論する。しかし、これはあまりにも図式的な強弁ではなかろうか。「客観写生」も「花鳥諷詠」も同じ事柄の言い換えに過ぎないのではなかろうか。教育現場のことなので、積極的な検討がのぞまれる。

  白牡丹といふといへども紅ほのか     虚 子
  
 これは大正十四年(1925)五月十七日の大阪毎日俳句大会における句。高橋氏は、この句を「人々は白牡丹と言うけれども、虚子はそこに仄かな赤みを発見した」と高校生に説き、〈このように物をじっと見て詠む姿勢が《客観写生》である〉と教えたという。

  流れ行く大根の葉の早さかな        虚 子

 これは昭和三年(1928)十一月十日の九品仏吟行の産物。高橋氏は、この句を「この句は目の前にある物(大根の葉)をじっと見て詠んでいるが、その後ろに人の生活がいろいろ見えてくる。こういう俳句への姿勢を《花鳥諷詠》というんだ」と教えたという。

 だが、ボクには前者の白牡丹の後ろにも人や人の暮らしが見えるし、後者の大根の葉の早さも作者の新鮮な驚きであり、発見であるように思われる。

 
 
by bashomeeting | 2010-06-13 17:29 | Comments(0)

 尚々 以下の要約を終えたあと、ボクの講座内容が説く安吾像について、Y氏と意見をかわす機会を得た。 氏は「肝臓先生」に与えた〈たたかえ!〉の碑文が安吾のひたむきな生き方そのものとも重なるという。聞くべき見解である。
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 東洋大学(文京区白山)で、五年前から〈坂口安吾と現代〉という講座がおこなわれていて、今日(六月十一日)はボクの当番であった。昨年は〈安吾の第二芸術論〉について考えたが、今年は〈「肝臓先生」を読む〉という題で、臨床医に徹した〈足の医者〉ともいうべき町医者を主人公とする小説を紹介した。戦時中の日本人に伝染する、ウイルス性の肝臓炎を発見して、その治療と対策に奮闘した佐藤精一(俳号十雨)医師をモデルにした話である。
 近年、汚染された血液製剤でC型肝炎に感染した患者らが、国に賠償を求めた薬害肝炎集団訴訟は、医者の倫理に関して強い不信感を抱かせたが、昨年は新型インフルエンザへの対応に右往左往し、今年はまた家畜に口蹄疫という病気がついて、殺されてゆく牛や豚のニュースに心をいためる日々が続いている。今日なお人類を悩ませるこうした病気を思うとき、肝臓病にウイルス感染をはじめて指摘する「肝臓先生」という短篇は、すこしも色あせていない。

◇「肝臓先生」に関心をもつきっかけ
 それは、園部雨汀という俳人の随想「肝臓先生とその周囲」(「俳句文学館」俳人協会、平15.10.5)を読んだことにある。そこには次のような興味深い事柄が書かれていた。

1,伊豆半島の保養地伊東市に、安吾の短篇「肝臓先生」のモデルである佐藤清一(正しくは「精一か」。俳号十雨)医師の自宅で、職場でもあった天城診療所が現存し、その中に肝臓先生資料館があって、司書もが常駐(ただし午後)していること。
2,その資料館には、一茶・其角・立圃などの真筆とともに、芭蕉の旅に随行した曽良の『曽良旅日記』発見者、山本六丁子関連の資料も展示していること。つまり、六丁子と十雨は親しかったということ。
3,この『曽良旅日記』は肝臓先生が保管していたこと。
4,この資料館は、収集した美術品や資料などの散逸を防ぐために、肝臓先生みずから建設したものであること。
5,〈肝臓先生には逸話が多く、伊東に十二年間滞在した尾崎士郎の「ホーデン侍従」、士郎を頼って移り住んだ坂口安吾の「肝臓先生」はのちに映画にもなった〉こと。
6,この天城診療所の玄関に〈肝臓先生の顕彰碑と、坂口安吾の「肝臓先生」の詩碑が立っている〉こと。
7,〈尾崎先生には私も知遇を受け、また安吾の「ケイリン事件」には競輪担当者として苦悩した〉こと。
8,〈私の短編小説には尾崎先生が主役で上山草人。坂口安吾、内山雨海の各氏を登場させ「ホーデン侍従」に書かれなかった裏話を書き賞を頂いた〉こと。ただし、〈私〉つまり園部氏の〈短編小説〉が何を指すかについては書かれていない。
9,尾崎士郎の旧居が取り壊されたあと、居室にあった床の間の違い棚は、園部氏の小机になっていること。
10,園部氏は伊東市文化財審議委員会の設立を担当し、その委員長に森米城(俳人)、副委員長に肝臓先生(開業医・俳人)を委嘱したこと。
11,〈戦前亡くなるまで伊東に居住した東郷平八郎元帥の邸宅の小道に「東郷小路」という石碑があった〉が、肝臓先生が〈戦後GHQの摘発を恐れ〉て、自宅の庭に秘匿していたものを、園部氏が貰い受け、〈同士と協力して現在地に再建した〉こと。
12,伊東の現俳壇は園部氏の師系である〈昭和五年まで伊東小学校々長を勤めた曲水系の古見豆人。門下の森米城、木部蒼果〉が作ったこと。

◇「肝臓先生」の主な登場人物
〔肝臓先生〕 伊東の開業医赤城風雨。ウイルス性の肝臓炎患者治療に生涯を捧げた人という設定。肝臓先生はそのあだ名。実在の臨床医佐藤精一(十雨)をモデルとする。なお、園部雨汀氏がモデルの本名を「精一」でなく、清一とするのは誤記か。また、小説では米軍の艦載機に爆撃されて死ぬが、肝臓先生資料館の解説に據れば、モデルの佐藤精一先生は九十歳半ばまで現役の臨床医をつづけたとのことである。
〔私〕 戦後の伊東への訪問者で、小説家という設定。友人で彫刻家のQに誘われて戦争直後の伊東温泉に出かけ、肝臓先生顕彰の碑文をしたためる。作者安吾をモデルとする。
〔Q〕 〈私〉の友人で彫刻家。肝臓先生の為人を敬慕する一人。
〔烏賊虎〕 伊東の漁師。肝臓先生を敬慕する点で、Qに劣らぬ人物。〈私〉はQのすすめで、この烏賊虎家に滞在し、烏賊虎から肝臓先生の生涯を聞かされる。
〔蔦づるの女将〕 待合の経営者。肝臓先生の茶や詩歌の仲間で、無二の親友。
〔島の娘〕 流行性肝臓炎にかかった父親を肝臓先生に診てもらおうと、小島から舟で伊東にやってきた娘。

◇小説のあらすじ
 無条件降伏によって太平洋戦争が終結した二年後の昭和二十二年(一九四七)八月十五日、〈私〉は彫刻家Qに誘われて伊豆の伊東温泉に出かける。この困苦欠乏の時代に、衣食住のすべてにわたって禁令を解除し、飲み食いを制限しない三浦按針祭があるというのだ。だが出かけてみると、それはデマであった。Qは恐縮しつつ、新しい趣向を提案した。それは、この伊東の地で惜まれつつ、戦禍に命を落とした赤城風雨(肝臓先生)という臨床医を顕彰する、一篇の詩を〈私〉に書けと命ずるもので、承諾すれば、その間は土地の新鮮な食物にありつけるというわけである。
 〈語にとらわれると、物自体を失う。物自体に即することが散文の本質で、語に焦点をおくことを本質的に嫌わねばならない〉と考え、詩という〈圧縮された微妙な語感〉とは無縁と思っている〈私〉は、返事するどころか、可笑しくて〈ふきだして〉しまう。しかし、気分を害したQが、その虚無を気どるデカダンの頽廃を治せ、と忠告するに従って烏賊虎という漁師の家に滞在し、新鮮かつ美味なる食べ物にありつく。むろん、烏賊虎はQに劣らぬ肝臓先生信奉者で、〈私〉はその漁師の話によって、自然に肝臓先生の為人を学ぶことになる。
 昭和十二年ころ、肝臓先生は脚気や頭痛でやってくる患者のほとんど全部の肝臓が腫れていることに気づく。肝臓炎である。だが文献にそんな症例はない。患者には観光客もいるから、風土病でもない。全国的な現象であることは明らかであった。そして、腫れている肝臓のつぶさな観察によって、慢性的な症状のほかに、甚だしい伝染性のあることを突きとめる。家族の一人がこの肝臓炎に犯されると、数年のうちに、家族の全員に伝染するのであった。それは日支事変によって、日本と大陸とに莫大な人員物資の大交流が行われ、大陸の肝臓炎が輸入されたにちがいなかった。元来肝臓炎は風邪に随伴して起りやすいが、肝臓病者はカゼをひきやすくもあるのである。
 先生はこれを流行性肝臓炎と命名し、生涯をかけて治療と社会に向けた説得をつづけるが、父親の肝臓炎を診てもらうために、離れ小島から一人で舟を漕いで来た娘の舟で、その父の治療に向かう途中、艦載機の攻撃によって死亡。
 こうして、烏賊虎が語る肝臓先生の信念、〈足の医者〉として生きる誠実さに次第にうたれてゆく〈私〉は、Qの求める碑文を書くのであった。

◇肝臓先生の人物造型
  昭和八年に宮沢賢治没。その遺品の手帳の「十一月三日」の箇所に、いわゆる「雨ニモマケズ」という詩篇を発見され、翌昭和九年(1934)岩手日報夕刊に発表される。さらに、昭和十一年(1936)、日本少国民文庫の「人類の進歩に尽くした人々」(山本有三編)に収録。この年の十一月、花巻に詩碑も建立。安吾がこの一連の記事を知らなかったはずがない。むしろ法華経を中心とする仏道に傾倒して、自分の生き方を決めてゆく賢治に一定の関心を示しつつ、「雨ニモマケズ」が持つ誠実という滑稽味を肝臓先生の人物造型に採用したのではなかろうか。肝臓先生の名を赤城風雨とする、その「風雨」も〈雨ニモマケズ、風ニモマケズ〉を踏まえた遊び心であると思う。また、〈粉骨砕身の騎士〉の類の表現が頻出することから、向こう見ずな正義漢で親しまれるセルバンテスの『ドン=キホーテ』をも、肝臓先生の魅力創出に用いているとみて誤るまい。これらは、戦争・病気・死などという重苦しいテーマを、諧謔を以て描こうとする工夫であったにちがいない。

◇小説「肝臓先生」の時代 
・昭和7年  満州国建国宣言・五・一五事件
・昭和8年  国際連盟脱退
・昭和9年  ワシントン条約破棄通告・
・昭和11年 二・二六事件
・昭和12年 盧溝橋事件(日中戦争=日支事変)・日独伊防共協定・南京占領
・昭和13年 国家総動員法
・昭和14年 ノモンハン事件・第二次世界大戦
・昭和15年 創氏改名の法律制定・日独伊三国同盟調印・大政翼賛会発会・紀元二千六百年記念祝典
・昭和20年 広島に原子爆弾(ウラン)投下、長崎に原子爆弾(プルトニウム)投下。無条件降伏。
・昭和25年 『文学界』(第四巻第一号、1月1日刊)の「創作」欄に「肝臓先生」が発表される。同欄には、高見順・三島由紀夫・船橋聖一らの作品もある。ただし、「肝臓先生」は著者生前の収録刊本には収められていない。(ちくま文庫『坂口安吾全集7』平成二年〈1990〉解題による)

◇その他
 この小説は、肝臓先生を、戦地に赴いて死んでいった多くの日本兵と同じ悲劇の人として描くものである。
 そうした戦時下のあしらいとして〈放射能〉という言葉も使われている。
 また、先生の詩歌の友であった待合の主人には、実在の人をモデルにしたのかと思わせる魅力があること。この女将は憲兵からうけた侮辱に抗議して自殺するが、その遺書に添えてあった山吹の花は、〈私〉が語るとおり、〈花は咲けども実らぬ悲しさを伝えたもの〉という趣向で、例の太田道潅の逸話をもって注釈してかまわないが、道潅の逸話自体が創作性の強いものであることは、古歌に「なゝへ八重花はさけども山ぶきのみのひとつだになきぞかなしき」(兼明・後拾遺)があるので、覚えておく方がよいこと。
 加えて、父親の治療を求めて舟でやってきた娘がずぶ濡れであることを書くことで、米軍機の攻撃が激しいことをほのめかし、肝臓先生が艦載機の銃撃で死すという伏線をはるあたりは、谷地個人的には気に入らないこと。つまりデカダンの作家には、もっと不条理な死を描いてほしいこと。
 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、賢治の没後に出てきたノーにあった未公表作品であったように、安吾生前の作品集には採られなかった「肝臓先生」のような作品に光を当てることも、安吾研究には大切なことであることなどを話したが、その詳細をここに復元するのはむずかしい。
 さらに、作品の背景の問題として、俳人としての佐藤十雨を調べることは、一俳人研究にとどまらず、其角を継ぐ古典俳諧の道統の問題、近代俳句とりわけ新興俳句との関わりなどについて想像力をかき立てるものであることなどを感想として話した。
 なお、アドルムによる精神障害によって、安吾が伊東への転地療養をすすめられたころの伊東を求めて、旅をしてみたい。伊東の町内で、なんどか転居しているようだから、その調査の後でなければた正確なことは言えないが、安吾の住居の近所には若槻礼次郎元首相の豪邸があり、その真向かいには東条英機の家族が住んでいたと仄聞する。まだ憶測の域を出ないが、その家とは三浦義一の別荘ではなかろうか。三浦は政財界の最後の黒幕といわれる人物で、一度は東条英機を殺害しようとしたが、その後は意気投合し、A級戦犯として絞首刑になって以後の東条の遺族の世話を引き受けた人物のはずである。ちなみに、同じく戦後、荒廃しきっていた芭蕉墓所の義仲寺(大津市)を再建したのもこの三浦義一である。
 愛すべき賢治やドン=キホーテはあちこちにいたのである。

◇肝臓先生顕彰碑文(「肝臓先生」より、その全文)

 この町に仁術を施す騎士住みたりき 
 町民のために足の医者たるの小さき生涯を全うせんとしてシシとして奮励努力し
 天城山の炭やく小屋にオーダンをやむ男あれば箸を投げうってゲートルをまき雲をひらいて山林を走る
 孤島に血を吐くアマあれば一直線に海辺に駈けて小舟にうちのり風よ浪よ舟をはこべ島よ近づけとあせりにあせりぬ
 片足折れなば片足にて走らん
 両足折れなば手にて走らん
 手も足も折れなば首のみにても走らんものを
 疲れても走れ
 寝ても走れ
 われは小さき足の医者なり走りに走りて生涯を終らんものをと思いしに天これを許したまわず
 肺を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり
 胃腸を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり
 カゼひきてセキする人の肝臓をみればこれも腫れてあるなり
 ついに診る人の肝臓の腫れざるはなかりけり
 流行性肝臓炎!
 流行性肝臓炎!
 戦禍ここに至りてきわまれり
 大陸の流感性肝臓炎は海をわたりて侵入せるなり
 日本全土の肝臓はすべて肥大して圧痛を訴えんとす
 道に行き交う人を見てはあれも肝臓ならむこれも肝臓ならむと煩悶し
 患者を見れば急いで葡萄糖の注射器をにぎり
 肝臓の肥大をふせげ! 肝臓を治せ!
 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!
 かく叫びて町に村に山に海に注射をうちて走りに走りぬ
 人よんで肝臓医者とののしれども後へはひかず
 山に猪あれども往診をいとわず
 足のうらにウニのトゲをさしても目的の注射をうたざれば倒れず
 ついに孤島に肝臓を病む父ありて空襲警報を物ともせずヒタ漕ぎに漕ぎいそぐ
 海上はるか彼方なり
 敵機降り来ってバクゲキす瞬時にして肝臓先生の姿は見えず
 足の医者のみかは肝臓の騎士道をも全うして先生の五体は四散して果てたるなりき
 しかあれど肝臓先生は死ぬことなし
 海底に叫びてあらむ
 肝臓を治せ! 肝臓を治せ! と
 なつかしの伊東の町に叫びてあらむ
 あの人も肝臓なりこの人も肝臓なりと
 肝臓の騎士の住みたる町、歩みたる道の尊きかな
 道行く人よ耳をすませ
 いつの世も肝臓先生の慈愛の言葉はこの道の上に絶ゆることはなかるべし
 肝臓を治せ
 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!
 たたかえ! たたかえ!
 たたかえ! と


                                       ― 畢 ―
by bashomeeting | 2010-06-11 18:53 | Comments(1)

 さいたま市与野に、数年前に建設された鈴谷公民館という立派な施設がある。そこの依頼で、「松尾芭蕉をあなたに―俳句と絵画のコラボレーション」と題する古典文学講座(全4回)を担当した。五月十一日(火)から六月一日(火)まで、週一回の企画で、鈴谷公民館と与野本町公民館の共催であった。申し込みは定員の50名を超えたが、会場に入りきれるならかまわないとお伝えし、抽選ではずれが出るのを避けた。

 第一回目は「芭蕉が生まれるまで ― 連歌俳諧の歴史をのぞく ―」と題して詩歌の歴史を振り返り、芭蕉の誕生と、時代を超えたその魅力の発見に努めた。資料に掲げた「話のあらまし」は次の通り。
 芭蕉は俳人であるという。しかし俳人は俳句を作る人のことかというと、そうではない。芭蕉ばかりか、蕪村も一茶も、実は連歌という長い歴史を受け継いで、俳諧(今は連句という方がわかりやすい)という、共同制作の詩に遊ぶ人々だった。その歴史を少しのぞいて、今まで抱いていた芭蕉に対する先入観を取り除いてもらおうと思います。近代詩歌が忘れてしまった、この「聯のこころ」を学ぶことが、コラボレーションに遊ぶ入口だと思うからです。

 第二回目は「『おくのほそ道』の読み方― 会って別れるということ ―』と題して、芭蕉が旅を通してたどり着いた人生観を考えた。資料に掲げた「話のあらまし」は次の通り。
 『おくのほそ道』はどう読めばよいのか、芭蕉が生涯をかけて辿り着いた人生観と旅は、どのような関係にあるか。この話が『おくのほそ道』全篇を読むきっかけになりますように。

 第三回目は「『おくのほそ道』の連句―鑑賞は創作である―』と題して、近代詩歌が忘れ去った連句という座の文芸について解説した。教材は『おくのほそ道』の途次に、須賀川で巻いた「風流の初や」歌仙を用い、式目などの知識はほどほどに、作品をいまふうに翻案して遊んだ。

 第四回目は「詩人になろう―俳句と絵画のコラボレーション―」と題して、参加者に写真や絵はがきを持参してもらい、初めての俳句に挑戦してもらった。これには、私の俳句につゆ草さんが添えてくれた写真がよい教材になった。

 全四回を通して、私が語りかけた内容を要約すると次のようなことになる。

 誰にも語り継ぎたい物語がある。その物語はロダンの「考える人」のように背中を丸め、頬杖をついていても生まれるものではなく、ある他者(対象)を通して、「あゝ」という感動になって現れる。それが自己表現である。その感動を三十一音にひらけば短歌、十七音にひらけば俳句である。芭蕉は旅も自己表現に有効な他者(対象)と考えていた。短歌も俳句も、詩型としては丁寧に説明する字数を持たないところに特色がある。これは言い尽くすことのできない詩型ということである。よって、言いかけて途中でやめてもよいという気持ちで、自分の思いを語ってみることが大切。思いのすべてが伝わらなくてもよい、というくらいの軽い気持ちで句を作りたい。ひとつの言葉が思いつくまで、写真や絵はがきを凝視してほしい、読んでほしい。読む(read)ということは詠む(compose a poem)ということなだから。
by bashomeeting | 2010-06-07 10:41 | Comments(2)