2010年 07月 10日
追憶の誤謬◆昭和との再会
茶飲み話に、こんな話をしたら、Qが『新潮45』(7月号)は〈特集「田中角栄」待望論)を編んでいると差し出した。この雑誌がまだ続いていたのかという驚きと懐旧から、これも読了。新潟日報社常務取締役である小田敏三氏の〈心持ちはいつも「村の長」)が一番おもしろかった。亀岡高夫氏の文章からは〈追憶の誤謬)という言葉を学んだ。年をとって、俺の時が一番だったと思い込むこと、つまり若者の台頭を認めない情況をこう呼ぶのだそうだ。野坂昭如さんが近況を連載していたことも嬉しかった。
〔フィヒテ〕 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)。 1762年~1814年。カントからヘーゲルにつながる哲学者(ドイツ観念論)。イギリス以外のヨーロッパを征服したナポレオン1世占領下のベルリンで、十四回にわたる講演「ドイツ国民に告ぐ」を行ない、国民教育論を展開したことで知られる。
〔ドイツ観念論〕 カントに始まり、フィヒテ・シェリングを経てヘーゲルにつながる理想主義。自然よりも精神を優越的地位に置き、人間を含むこの世界を神(絶対者)と呼ばれる観念的原理の展開として把握しようとする。
2010年 07月 08日
捜索◆正岡子規の本
2010年 07月 05日
学習◆比較文学とは
1,異なる国の「作品」が材料である(二ヵ国以上の言語に堪能で、かつ「両国の作品」を読めることが前提である)。
2,確証(事実)の比較という方法を用いる(これは「比較文学に独自の方法」ではない)。
3,期待される結果は「相互の連関や影響関係」を調べて各自の特徴を明らかにすること(これも「比較文学に独自の方法」ではない)。。
4,めざすべき世界は、文学の全体的な歴史の解明(「世界文学史」が書けるということか。とすればスゴイ)。
つまり、外国語能力を以て、たとえば「日本文学固有の世界を解明」する、あるいは日本語能力を以て比較の「対象国の文学の世界」を解明するということか。
2010年 07月 03日
この人の一首◆杉本照世『吾亦紅』
受取拒否すれども消ゆることのなき住基ネットのわが背番号
卒業の朝に小雪の舞ひしこと幾年後に君等語るや
独り住む淋しさなどは言ひもせず友に手をふり別れ来にけり
さらさらと白き骨なりし心厚く八十五年を生きたる人の
……中でも、平成十五年の六月に母を、八月に父をと相次いで見送り一人居となってからの七年は、百年に一度という世界的な大恐慌にのみ込まれた社会の有り様に戸惑い、IT革命とやらの情報システムについてゆかれずに、ただおろおろとする過ぎ行きの日々でした。ふりかえって、何とも暮しがたい日々を支えてくれたのが、短歌を詠むことであり、短歌を通しての人と人との交流でした。(略)
この歌集の上梓を私に思いたたせたもう一つの願いは、老いてゆく両親の傍に在って、自分たちのめんどうをみながら生活を共にしている独り身の娘を後に残してゆくことを、逝くその日まで案じていてくれた両親の思いに応えることでした。
この歌集を両親に捧げます。 ―『吾亦紅』あとがきより―
〔『吾亦紅』〕 杉本照世歌集。平成22年6月刊、渓声出版。
2010年 07月 02日
激励◆子燕に叱られて拭く涙かな 海 紅
子燕に叱られて拭く涙かな 海 紅