2010年 08月 28日
百閒の芥川観◆あんまり暑いので、腹を立てて死んだのだろう
暑いことは暑いが、ボクはこれから新潟の村上に出かける。ここは芭蕉が『おくのほそ道』には書かなかった地なので、一度も出かけたことがなかった。このたび、卒業生が年に一度誘ってくれる旅で、長年の夢がかなうことになる。
一瞬は美しきもの流れ星 中川久里子
2010年 08月 24日
八月が過ぎようとする夜に◆ぬけぬけと自分を励ますまじめ歌 吉野弘
ぬけぬけと自分を励ますまじめ歌 吉野 弘
他人を励ますのは、気楽です
自分を励ますのが、大変なんです
私は誰か、私は何か
知ってしまったあとだもの
私は自分に言い聞かせるの
私はこれから咲く花ですよ
それはちょっぴりウフフ
それはちょっぴりアハハ
都合のいい夢咲かせていよう
私は遅咲き大輪の花
自分をいじめるのは、子供です
自分をいじめないのが、大人です
アハハウフフ アハハウフフ
私はウフフの大人でいよう
アハハで励ます大人でいよう
―吉野弘 『夢焼け』 花神社による―
2010年 08月 20日
旧事追懐◆夏と秋とゆきかふ空や流れ星 東皐
平成8年に芭蕉自筆とされる『おくのほそ道』が現れて、TVや新聞その他を巻き込みながら、その真贋を中心に物議がかもされていたので、平成10年の学会は「集中研究・『奥の細道』をめぐって」という、この学会としては異例の〈シンポジウムまがいの〉(同誌「第五十回全国大会の記」)企画でおこなわれた。
その五ヶ月ほど前に、櫻井武次郎さんから芭蕉自筆本に関する発表をするように説得されていたボクは「貼紙訂正〈過客「にして行かふ」年も〉について」という題で発表した。新出本の最大の価値は「立ち帰る年も」から「ゆきかふ年も」に推敲されたことが判明した点にあり、こうした作品の根幹の思想に関わる変更は作者以外にできるものではない。新出本の真贋論爭が筆跡鑑定にばかり傾いて展開しているのは是非ないことではあるが、拙論のように、内容吟味という視点からの検証もおろそかにできないのではないかという脈絡の発表であった。
その主旨は、発表が決まった直後の俳文芸研究会で先生方に聞いていただいていて、病床の井本先生から〈おもしろそうじゃないか〉という励ましも届いていた。こうして、平成十年は忘れられない年になった。
芭蕉が『おくのほそ道』の冒頭に採用した「ゆきかふ」は「行き違う」の意で、もっとも著名な用例は、
夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風や吹くらむ(躬恒・古今・夏)
という和歌である。
昨夜それとなく近世の発句集を眺めていたら、この歌の文句取りで詠まれた句に遭遇した。
夏と秋と行交(ゆきかふ)空や流星(東皐・奥美人)
この作者は18世紀後半に活躍した岩手の高橋東皐という人で、蕪村に私淑し、その高弟高井几董と親しく、当時の江戸や京都の俳人との交流があった。そして、芭蕉会議でときどき話題にしている菅原宏通さんの奥方の先祖にあたる。
これから『おくのほそ道』の話をするときには、この東皐の句も教材として引用させてもらおうと思う。
雷鳴と蜩の日々が、いつしか虫の声に移っている。残暑とは深秋へのひとすじの道でもある。
2010年 08月 18日
盂蘭盆会(その2)◆逢ふことのなかりし兄や魂迎へ
〔海紅附記〕
「逢ふことのなかりし兄や魂迎へ」という句は、八月前半の一句として「海紅句抄」に掲載されたものです。その感想として、このようなお便りをいただきました。Mさんの御了解を得て、謹んで御紹介いたします。
2010年 08月 17日
こんなモノが出てきた◆初めての連句
それにしても、しばらく連句を巻いていないナ-。
お別れの日のネクタイも緑濃し 海 紅
二十一人薫風の道 千年
田植歌次男は農を継ぐことに 宏美
めくれて見ゆるおむすびの海苔 明翠
月明かり目もとがわれに似てゐたる 清雪
寝息も虫もやすらけきかな 海紅
2010年 08月 16日
終戦の記憶◆壕を掘る兵隊さん
なぜか、とても静かでした。砂バケツリレーや、竹槍訓練などの防空演習もなく、警戒警報も鳴りません。祖父の家には、朝から近所の大人たちが出たり入ったりしていて、そのうちに大勢の人が集まってきました。
私はというと、とっても嬉しくて…、だってこんな時間に、こんなにたくさんの人が家に来てくれるのは、本当に久し振りだったから。ただただ嬉しくて、家中を飛び跳ねて、笑い転げて、客人にからみついて、じゃれついて、うれしくて、うれしくて…。
床の間のある広い座敷に、人々は集まっていました。床の間の真ん中には、祖父お気に入りの、四級スパーのラジオ(少し大きい茶色のキャビネットのもの)が置かれていて、みんなそっちの方を向いて座っていました。私はその人たちの間に分け入って、ケタケタ笑い転げて、じゃれ回っていましたが、突然「ゲタつくな!」と祖父の物凄い怒鳴り声、鬼のように引きつったその顔、そして間もなく、あの放送が始まりました。私は、今まで見たことのない祖父の形相に、ただ恐ろしくてガタガタ震えるばかり。なぜこの部屋にたくさんの人が集まっているのかも、ラジオ放送の内容も、まったくわからないのでした。放送が終わったあとの客人の様子は、なぜか何も記憶に残っていません。きっと、家の外に追い出されていたのでしょう。
祖父の家には、いつも壕を掘る兵隊さんが3人位泊っていたのですが、この日の夜から、兵隊さんは戻って来きませんでした。(M)
〔海紅附記〕 残暑見舞いに、こんなお便りをもらいました。そして、市村宏先生の歌を口ずさみました。山房の小さな仏壇のキュウリの馬はまだ生き生きとして、自分のつとめを待っています。
霊あらば親か妻子のもとに帰る靖国などにゐる筈はなし 市村 宏(『東遊』)
2010年 08月 12日
カウンターパート◆秋の蝉
泣き虫の木にも秋蝉鳴いてゐし 小笠原此君子
2010年 08月 12日
研究発表◆蓑虫の内なる芭蕉
資料に示した発表要旨は以下の通り。
くさの戸ぼそに住わびて、あき風のかなしげなるゆふぐれ、
友達のかたへいひつかはし侍る
蓑虫の音を聞にこよくさのいほ (栞集・あつめ句)
この句に対する先学の解釈から、『枕草子』を踏まえて、蓑虫を鳴く虫とする説をしりぞけたい。
貞享四年の仲秋、仏頂和尚との再会を果たして芭蕉庵に戻った芭蕉を素堂が訪ねる。素堂はその際の芭蕉を蓑虫に擬して「蓑虫やおもひしほどの庇より」と詠んで、無事帰庵したことをよろこぶ。その後、芭蕉を伴って戻った素堂居にも蓑虫を見て「みのむしにふたゝびあひぬ何の日ぞ」と詠み、芭蕉との再会の一日をふりかえった。この蓑虫は芭蕉の旅姿の見立てであり、『枕草子』にいう鳴く虫の表象ではない。鳴く蓑虫がイメージされてゆくのは、芭蕉から「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」という誘いがあって以後のことである。
呼びかけに応じた者は、素堂(「蓑虫説」)のほかに服部嵐雪(「蓑虫を聞に行辞」)や英一蝶(「画賛」)だという。素堂の「蓑虫説」には芭蕉の「蓑虫説ノ跋」が添えられる。ここで英一蝶の絵、つまり古木の梢に下がる蓑虫から鳴く虫を読み取るのはむずかしいが、「蓑虫説」とそれをうけた「蓑虫説ノ跋」と「蓑虫を聞に行辞」は『枕草子』を踏まえて、鳴く蓑虫を顕在化させる。だが、それは「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」と誘った芭蕉の意図をそれるものではなかったか。
素堂や嵐雪の誤解と直接の関わりがあるかどうかはわからないが、この年の十一月に刊行された其角編『続虚栗』には「聴閑」という公案に等しい題がある。〈閑を聴く〉とは〈声なき声を聴く〉、つまり坐禅の目的である無生心(むしようしん)と無住心の二つの心の体得をこころみるものではないか。仏頂和尚に師事したことが事実なら、芭蕉が学んだことは、対象に心を預けて一体になり、心を空・無の状態になること以外にはありえない。
十月二十五日、芭蕉は『笈の小文』の旅へ出立。翌年の三月十一日には伊賀の服部土芳の新庵に一宿した。その際に芭蕉は土芳に「みのむしの」発句自画賛(達磨図自画賛)を贈り、土芳はその賛「みのむしのねを聞にこよくさの庵」を以て庵号とする。そこに描かれる面壁の図が無音の蓑虫との一体化をこころみる達磨であり、芭蕉であると読めることも「聴閑」の題同様に、先行する句解から『枕草子』の蓑虫像を除去してよい証左ではなかろうか。
こうしてみると、貞享三年の〈古池や〉の句、〈しばらく清浄の心をうるに〉似た体験をした『鹿島詣』、蓑虫の姿と重なり合う達磨や芭蕉の姿、鵜飼の鵜や、〈こゝろすミ行のミ覚ゆ〉という岩や蝉との一体感に通底するものは禅学における無住心、閑を味わうという愉しみのように思われる。
2010年 08月 12日
祖母に抱かれる蕪村◆日高ライブラリーカレッジ講演
この日は立秋(旧暦六月二十七日)だったので、枕に、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(敏行・古今・秋上)
をあげて、緑陰を通る風がすでに秋であることを指摘した。
さらに、秋と言えば仲秋の名月が賞美されたこと、中でも今年は年金不正受給にからんで、百歳をこえる老人の行方がわからないという、現代版の棄老伝説が哀しくて、どうしても姨捨山の月(長野県千曲市)を思い出してしまう。それは、更級に住む男が妻の意見をいれて、親代わりに等しい恩のある老婆を山に捨て置いて逃げ帰るが、折から澄み切った名月を見て後悔し、「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と詠んで、翌朝老婆を連れ戻しに行ったという話であると話した。
そして、〈わが心なぐさめかねつ〉と言わねば気がすまない人は短歌、言いたくても言えない人は俳句に適しているかもしれない。蕪村は言いたくても言えない人、禁欲的な人であった。それはなぜかを推理したいと話した。
つづく講義概要は以下の通り
蕪村の読者には、その俳句や連句によって虜(とりこ)になるよりも、はじめは「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」「澱河歌」「老鶯児」という和詩の連作詩篇に魅せられたという人が少なくない。そこに萩原朔太郎著『郷愁の詩人与謝蕪村』(昭11)からの影響を認める人も多い。そこで今回は和詩や俳句から蕪村の郷愁の念を汲み取りつつ、蕪村の〈ひとりぼっちの原点〉を推理する。
具体的には、
1,「淋しすぎる景色」と題して、蕪村の佳句数十句を解説し、なにゆえかくも淋しい景色を描いたのかという問題提起をした。
2,「不可解なる哀傷」と題して、「北寿老仙をいたむ」を鑑賞し、蕪村の生い立ちには実の父母の影がうすいことを指摘し、どのような幼少期を送ったかを推測した。
3,そう推測させる手がかりとして、「春風馬堤曲 三部作」 (安永六『夜半楽』所収)を丁寧に読んで、「春風馬堤曲」中の藪入り娘は蕪村の二人の姉のどちらかがモデル、作品の終盤で白髪の人に抱かれているのは蕪村少年、抱いているのは祖母以外に考えられないと話した。蕪村は幼少期に実の両親と別れて育ち、その愛情をうけることは殆んどなかったという、ボクの昔からの思い込みを紹介し、批判してもらった。
4,「懐旧のやるかたなき実情」と題して、『夜半楽』に収める「春風馬堤曲」成立の実情を吐露する書簡(安永六年二月 柳女・賀瑞宛)を読んで、蕪村の孤影の全体像を想像してもらった。
このたび「淋しすぎる景色」としてあげた蕪村の名句は以下の通り。
1古庭に鶯啼きぬ日もすがら(寛保四歳旦)
遊行柳のもとにて
2 柳散清水涸石処々(句集484)
3 離別れたる身を踏込で田植哉(句集357)
4 春の海終日のたりのたり哉(句集117)
5 楠の根を静にぬらす時雨哉(句集677)
6 凩や何に世わたる家五軒(新選)
7 短夜や芦間流るゝ蟹の泡(句集271)
8 みのむしのぶらと世にふる時雨哉(遺稿525)
9 牡丹散て打かさなりぬ二三片(句集246)
かの東皐にのぼれば
10 花いばら故郷の路に似たる哉(句集325)
11 路たえて香にせまり咲いばらかな(句集326)
12 愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら(句集327)
13 水落て細脛高きかゝし哉(句集576)
14 狐火の燃へつくばかり枯尾花(句集738)
15 易水にねぶか流るゝ寒かな(句集805)
16 若竹や橋本の遊女ありやなし(句集305)
17 葉に蔓にいとはれ顔や種瓢(遺稿321)
18 草枯て狐の飛脚通りけり(句集737)
19 みの虫の古巣に添ふて梅二輪(遺稿50)
20 牡丹切て気のおとろひし夕かな(句集251)
老 懐
21 去年より又さびしひぞ秋の暮(句集553)
22 うき我に砧うて今はまた止ミね(句集610)
23 水にちりて花なくなりぬ岸の梅(遺稿86)
24 さみだれや田ごとの闇と成にけり(新花摘)
25 さみだれや大河を前に家二軒(句集346)
26 蚊の声す忍冬の花の散ルたびに(句集303)
27 我帰る路いく筋ぞ春の艸(自画賛)
28 月天心貧しき町を通りけり(句集529)
29 蕭条として石に日の入枯野かな(句集742)
30 葱買て枯木の中を帰りけり(句集803)
31 ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ(五車反古)
懐 旧
32 遅き日のつもりて遠きむかしかな(句集116)
33 几巾きのふの空のありどころ(句集161)
2010年 08月 12日
鮎◆講演からの帰り道
鮎宿の雪洞一つ岩の上 近田 柳汀
鮎籠を編むひらひらとぱらぱらと 大岡 杉人
秩父路の一膳めしや鮎をやく 高橋 秀亭