2010年 11月 29日
大江ひさこ 個人詩誌『黒マント』終刊号
マスクで顔をかくし軍手をはめて外へでる
子ガラスの後ろへ忍び寄り
一度で掴まなくては
むんずと掴む
む
この子は生きられると思う
―「カラスのみどり」の一節(『黒マント』終刊号所収)―
大江ひさこさんの個人詩誌『黒マント』が13号を以て終刊になる。先日、その刊記「2011年1月1日」を迎える前に恵与される幸運を得た。この詩はその巻頭作品の抄出。2004年から俳句の座で親しくしてもらった御褒美のようなものであろう。
大江さんの詩は文字通り詩だが、文章もまた詩である。詩は鼓動であり、脈搏であるという意味で、彼女の文章は詩そのものと言ってよい。
しかし、いうまでもなく俳句は十七音の拍動しかないので、大江さんの鼓動を伝えきれないこともある。しかし、彼女にはそのもどかしさを愉しんでいるふしがある。つまり、アグレッシブなのである。どこまでもアグレッシブな人の詩誌の終刊号だから、言いかえれば、終わりは始まりのような人だから、次になにか来るか愉しみに待っていればよいのであろう。
2010年 11月 23日
日帰りの旅◆花供養と京都の芭蕉
花供養は近世中期の俳人高桑闌更が展開した芭蕉顕彰事業で、東山双林寺境内に芭蕉堂を作って芭蕉を祀り、毎年三月には全国の俳人の句をあつめた『花供養』を刊行した。この度の企画は、その歴史的な意味を追究するもので、大津の義仲寺から発信された『諸国翁墳記』とともに、ボクには強い関心の対象である。パネリストとその演題は以下の通り。
「京都の芭蕉さん ―花供養と芭蕉塚―」竹内千代子(聖トマス大学准教授)
「花供養と京都俳壇」松本節子(元福井大学教授)
「花供養の書誌 勝田善助」 岸本悠子(立命館大学大学院博士課程)
「芭蕉堂と花供養」小林 孔(大阪城南女子短期大学教授)
京都駅から衣笠までの往復にタクシーを使って、忙しい一日であったが、きわめて有益な一日であった。残る難問は、この成果をまとめる時間をいかに捻出するかである。
運転手さんに、例年なら紅葉の真っ盛りだが、今年はどうかと尋ねると、始まりは幾分遅かったが、いまは例年通りの見ごろにであるいう話。日帰りでどこに立ち寄る時間もないボクは、街路樹の枝に雀が群れ来るたびに、そして飛び去るたびに枝を離れる枯葉を、タクシーの窓からながめつつ帰途についた。みやげは西尾の生八つ橋を少し。この店の創業は元禄二年(一六八九)、芭蕉さんが『おくのほそ道』の旅に出た年である。帰宅すると、雪虫が二、三庭先を行き来していた。
日帰りの一人の旅の冬紅葉 海 紅
〔附〕独活さんから脇句をいただいたので
日帰りの一人の旅の冬紅葉 海紅
うれしくもありさびしくもあり 独活
風邪ひいて読みさしの書を枕辺に 海紅
2010年 11月 14日
北村太郎と連句◆自由詩は不自由詩
2010年 11月 14日
再耕:酉の市
論文を読む会で「酉の市の例句が古句にないのはなぜだ」という話題があった。結論を先に言えば、酉の市が文化として定着したのはそれは明治時代以降であるからということになる。
本当に近世に例句はないのか。この疑問に答えるべく身辺の歳時記類を読む。その結果、どうにか、この其角の句を見つけた。しかし今泉先生たちが編んだ『其角全集』(勉誠社)にこの句は見あたらない。ということは今の段階では存疑とせざるを得ない。句に其角らしい切れ味が乏しいから、月岑がブランドである其角の名を借りて創作したか、それに似た偽作の可能性もある。以下に、江戸時代の酉の市の記事を抄出してみよう。
〔酉の市人〕恋もこもれり酉の市人(誹諧けい8・天明6)
〔浅草田圃酉の市〕はるをまつ事のはじめや酉の市 其角(東都歳時記・天保9)
〔酉の市〕酉の日 伊豆国賀茂郡三島の駅にあり。(増補誹諧歳時記栞草・嘉永4)
〔酉の町詣〕酉の日 鶏大明神の社は武州葛飾群花又村にあり。江戸より三里。毎年十一月酉の日、市立つ。酉の日三ツあれば三日ともに市なり。上の酉の日を專とす。江戸近在より諸人群衆して、甚だ賑はへり。是当社神事の遺意か。土産に芋がしらを売也。参詣の人、必これを買ひて家に帰る。又此日、浅草寺の裏手、鶏大明神にも此市ありて群衆す。(増補誹諧歳時記栞草・嘉永4)
〔酉の市〕江戸にて今日を酉の市と号し、鷲(おおとり)大明神に群詣す。この社、平日詣人なく、ただ今日のみ群詣して富貴開運を祷ること、大坂の十日戎と同日の論。(守貞漫考・嘉永6ころ)
東京都台東区千束に長国寺と鷲神社が隣り合って存在する。「鷲」はオオトリと読ませている。長国寺の縁起では鎌倉時代のある十一月の酉の日、国家平穏を祈願する日蓮の前に菩薩が現れたという。鷲神社では、天宇受売命が舞う際に弦楽器を奏でる神がいて、天手力男命が天之岩戸開ける際に、その弦楽器の弦の先に鷲がとまった。これを世を明るくする瑞祥として弦楽器担当の神を天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、つまり鷲大明神として祀ることになったという。また、のちにヤマトタケルが東夷征討の途に戦勝祈願し、お礼参りで社前の松に熊手をかけた。その日が十一月の酉の日であったので、この日を酉の市にしたともいう。神仏は附会(ナンデモアリ)だからおもしろい。コジツケという意味である。お酉様信仰が上方の堺市鳳町の大鳥神社を本社とすることはよく知られている。しかし、東京のお酉様信仰はそばに新吉原の遊郭が控えていたことによって、独自のにぎわいと展開をみせたにちがいない。その意味で『守貞漫考』の「大坂の十日戎と同日の論」という指摘はよくモノが見えている人の解説である。
ここからわかることは、年中行事としての酉の市は近世中期、あるいはそれ以前から立っていたが、幕末においてもそれが季題化するほどの現象はなかったということだ。『栞草』の「酉の町詣」はたぶん「酉の市詣」や「酉の祭詣」で、イチとマチとマツリがまぜこぜになった。「市」はマチと読んだし、マツリとマチは似ていなくもない。全国の訛りを持ち込んだであろう江戸とその近郊に、こうした混乱が起きてすこしも不思議はないのだ。だから「酉の市」を「酉の町」とする解説は間違として斥けてよいだろう。また「鶏大明神の社は武州葛飾群花又村にあり。江戸より三里」の社とは足立区花畑七丁目の大鷲神社(おおとりじんじや)で、別の縁起を伝えている。ここが台東区の鷲神社の本社と思われ、その初期の姿は、おそらく近在の者がその年の収穫や、季節の工芸品を持ち寄ったフリーマーケットの類ではなかったか。酉の市の起源は今の朝市・夕市や日曜市にも似た、素朴な市であったにちがいない。
馬肉屋の姉妹に逢ひぬ一の酉 海紅
夕月ほそき立冬の街 希望
遠千鳥入江の闇をおしひろげ 海紅
2010年 11月 06日
国立劇場:国性爺合戦◆めずらしい〈通し狂言〉
早めに家を出て、めずらしく、つまり有楽町線を使わず、山手線の高田馬場から東西線に乗り、九段下で乗り換えて半蔵門駅から地上に出る。いつものように弁当屋「レタス」で百円のおにぎりを二個食べて、カフェ「ラハイナ」でコーヒーを飲んで劇場へ。去年まで劇場外に設置していた喫煙所はなくなっていた。
席は2階6列16番。国性爺合戦は全五段で、芝居は三段目の獅子ヶ城の場がほとんどということだが、このたびは序幕「大明御殿の場」「肥前国平戸の浦の場」、二幕目「千里ヶ竹の場」を置いていて、近松のストーリーをかなり忠実に追うことができる。それが通し狂言と謳っている自信だろう。かげろう金曜会で読破した作品だが、読書ではつかみがたい衣装の華やかさにまず満足した。團十郎の和藤内(鄭成功)、藤十郎の錦祥女は言うに及ばずながら、左團次の老一官、中村東蔵演じる母の渚、中村亀鶴演じる栴檀皇女もよかった。私の好きな小むつ(和藤内の妻)に出番がなかったのは残念。なお、ラストシーンで自害する錦祥女と渚をいつまでも舞台に置いておく演出は間違いであり、失敗であると思った。
帰途、誘われて隣のホテル「グランドアーク半蔵門」のラウンジ「LA MER」で浅酌。東京の黄昏をゆっくりとながめた。
国性爺合戦を観て秋惜む 海 紅
〔国性爺合戦〕近松門左衛門作の人形浄瑠璃(時代物)の一。明朝の臣下鄭芝竜が日本に亡命して、日本人の妻との間にできた和藤内(鄭成功)という息子が、台湾を拠点に展開した明国復興運動の話。大坂、竹本座の創始者竹本義太夫が没した翌年、つまり正徳5年(1715年)に竹本座で初演、三年越し十七ヶ月のロングランとなった作品。台湾や中国で英雄視されて現在にいたる。
2010年 11月 03日
子どもが憎くて、立ちはだかる親はいない(TVドラマ『てっぱん』より)
三人の子にある個室文化の日 海 紅