2011年 01月 16日
はじめての連句2010◆「輪飾の」付合(十一句)
みかん転がる廊下冷たく 万季
傾きし冬日追ひかけ猫眠る 由香
風に吹かれて薫る焼畑 ふじ子
チョー伸びたスカイツリーの横に月 愛
秋刀魚焦げつきけむる七輪 恵美子
鈴虫を時々聴いてホームレス 由香
けふこそ職を得させ給へと 憲治
千円の指輪はづして着るスーツ ふじ子
三越前を乳母車行く 憲治
耳たぶに彼の面影梅の花 絵美
〔解題〕俳諧演習クラス(3,4年)の締めくくりに、平成23年1月6日(木)と13日(木)の2日間を利用して、連句の創作に挑んだ。解釈と鑑賞をしながらの付合だったので、全十一句で時間切れ。今年度は三年生15名、四年生10名の一年間であった。学生諸君、俳諧などという不思議な分野にお付き合いいただきありがとう。
2011年 01月 01日
迎春
2011年辛卯歳旦
山見ゆる窓に住み馴れ年新た 海 紅
2011年 01月 01日
俳人蕪村の原風景◆法政大学「人間環境ゼミナール」
秋の夜の会話 草野 心平
さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね
まず、心平のこの詩を朗読し、詩の主が二匹の蛙で、舞台は秋であること、しかし日本語には定まった季節があるという古典語の視点でいうと、「蛙」は春季で、「虫」は秋季、また「さむい」は冬季というふうに、三つの季節が混在していること、近代文学以降はやかましく言わないけれど、日本の古典文化を愉しむには、このあたりへの目配りが不可欠であると説いた。そしてなにより心平のこの詩には、一行一行が緊密な関係をもちつつ、物語られる一つの筋があることを確認した。
古池やかはづ飛こむ水の音 はせを
芦のわか葉にかゝる蜘(くも)の巣 其 角
暁台編『幽蘭集』(寛政11)
次に、蛙つながりでこの芭蕉の句を、其角の脇句とともに示し、芭蕉・蕪村そして一茶という人たちが本業と考えていた形式が、連句(俳諧之連歌)という他者との合作であること、ゆえに一行一行の緊密度はゆるく、その空白を補いながら味わう文芸であったことを説いた。
とはいえ、こうした連句は芭蕉とそのグループが高い文芸性を実現したが、いまから振り返ると、その流行は蕪村のころに早くも下降しはじめている。つまり、蕪村の連句の魅力は、その発句(俳句)の魅力に及ばない。蕪村は芭蕉連句の魅力を俳句で実現した人と考えてよい。その名句とされる句々はおおよそ「北寿老仙をいたむ」同様の淋しい景色である。蕪村の句が淋しすぎる理由は生い立ちにあって、「春風馬堤曲」の主人公である藪入り娘には蕪村の姉が、ラストシーンで「弟」を抱いて立つ「白髪の人」には祖母が投影されており、「弟」とは蕪村自身と見て誤らないと思われると説いた。蕪村の淋しさは、すでに幼児期に両親の情愛からかけ離れた境遇で育ったことにあると思う。研究者には評判は悪いが、朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」という読みはかなり正しいものであったように思うと述べた。
2011年 01月 01日
思い出の旅◆高知に千年氏と再会す
佐川町に千年氏を訪ふ
山八重に水澄む里のゆゑにかな 海紅
草香庵のイガ栗に客 千年
月の江をめぐる女に鰡跳ねて つゆ草
日曜市に龍馬見かくる 千寿子
花の宴江戸の訛りが板に付き 主美
父母います里に摘草 執筆