2011年 09月 13日
続々金魚と不条理
2011年 09月 13日
続金魚と不条理
2011年 09月 13日
名月の客
仲秋の月の客とて一教師 海 紅
2011年 09月 13日
金魚と不条理
この四尾は六七年前の村祭りで娘がもらって帰り、自分の部屋で育てていたものだが、成長したので玄関先に大きな水槽を用意してボクが世話をひきうけたものだ。毎日みていると、四尾それぞれ性格のちがいがわかって、他をおしのけて餌をとりに来られない弱者をもっともいとおしんでいたのだが、それを含めた二尾が生き残っている。
世の中、まことに何が幸いするかわからない。いや、何が幸いかわからないと言いかえるべきか。
2011年 09月 13日
意味のわからない俳句
ボクが詠んだ近年の句に「柳井綾子といふ大慈石蕗の花」という句がある。これは柳井綾子という人を知らない読者にとっては、作者の身勝手な作品ということになろう。しかし、ボクはそれを承知していながら、なんとかして「柳井綾子」という名前をあからさまにして、謝恩の心をカタチにしたかった。
そこで、この人を「大慈」と「石蕗の花」という二つの言葉から逆照射してみた。その評価は読者に任せるしかないが、作者と読者との間にこうした努力で橋を架けることはできる。ボクは読者にこの女性の微細を承知してもらおうとは思わない。「大慈」と「石蕗の花」とから髣髴とするものを感じ取ってくれるなら、作者としてはそれで満足である。
俳句が伝えられることはこの程度のことだし、それで十分であると思う。
九月十日(土)は俳文学会の東京研究例会で江東区の芭蕉記念館に出かけて、『おくのほそ道』平泉の章の「草青みたり」理解について日中の比較を試みる発表と、三宅嘯山の画賛についての発表を聞いた。翌十一日は東銀座で無花果句会。「意味のわからない俳句」はこの二日の刺激から思いついたメモである。