海紅山房日誌

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 俳諧研究者の有志で猿ヶ京に研修旅行に出掛けた。過去に四度ほど訪ねた土地だが、その際に泊まった旅館はまったく思い出せなかった。今回は猿ヶ京ホテル(みなかみ町猿ヶ京温泉1175)泊である。

 第一の目的は、持谷靖子氏が館長をつとめられる三国路与謝野晶子紀行文学館(旧三国路紀行文学館)所蔵の芭蕉書簡(『おくのほそ道』出立の経緯を報じるもの)を見せていただくことである。
 それは元禄二年三月二十三日付安川落悟宛書簡。思いがけないほどに間近く、長々と、かつつぶさに拝見することができた。そしてあらためて思った、実人生とは別の世界を構築して、そこに住むことを理想とする、二元論的な人生を生きる芭蕉のような人物にとって、書簡というものはどの程度の事実を伝えているかと。
 考える手がかりにしたものは以下の九点である。
1)「北国下向の節立ち寄り候ひて」(同年一月十七日付の兄半左衛門宛)
2)「弥生に至り、待ち侘び候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、秋の初め、冬までには、みの・をはりへ出で候」(閏一月末か、猿雖宛)
3)「拙者三月節句過ぎ早々、松嶋の朧月見にとおもひ立ち候。白川・塩竈の桜、御羨ましかるべく候。欄木良医師一伝頼み奉り候。仙台より北陸道・美濃へ出で申し候ひて、草臥申し候はば、又其元へ立ち寄り申す事も御坐有るべく候」(二月十五日付桐葉宛)
4)「住み果てぬよの中、行く処帰る処、何につながれ何にもつれん。江戸の人さへまだるくなりて、又能因法師・西行上人のきびすの痛さもおもひ知らんと、松嶋の月の朧なるうち、塩竈の桜ちらぬ先にと、そぞろにいそがしく候」(二月十六日付宗七・宗無宛)
5)「花の陰我が草の戸や旅はじめ」(杉風自筆詠草)
6)「松嶋一見のおもひやまず、此廿六日江上を立ち出で候。みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみに候/はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着末草庵を人にゆづる。此人なん、妻を具し、むすめを持たりければ、草庵のかはれるやうをかしくて/草の戸も住みかはる世や雛の家」(三月二十三日付落梧宛)
7)「残生旅立ちの儀は落梧へ具に申し進じ候」(同三月二十三日付李晨宛)
8)「はるけき旅の空おもひやるにも、いささかもこころにさはらんものむつかしければ、日比住みける庵を相しれる人にゆづりていでぬ。このひとなむ、つまをぐし、むすめ、まごなどもてるひとなりければ/草の戸も住みかはる世や雛の家」(『世中百韻』)
9)「むすめ持ちたる人に草庵をゆづりて/草の戸もすみかはるよや雛の家 ばせを」(真蹟短冊)

 第二の目的は加藤定彦氏の講演「北毛俳壇の展開と月次句合―左部家旧蔵資料の語るもの(その3)」を聴くこと。懇親を含めてまことに有意義な旅であった。

 帰途、高崎市立中央図書館で俳書を閲覧する機会にめぐまれた。ボクは栗庵似鳩が諸家の春の句々を集めた『せりのね』という一書を丁寧に調査することができた。
by bashomeeting | 2012-08-30 10:42 | Comments(0)
 飯坂を出て、福島市山口の「しのぶもぢ摺の石」を尋ねる。いま信夫文知摺観音を祭る山里である。『おくのほそ道』に以下の通り。

 あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 ここは『古今集』の源融の歌から生まれた物語で知られる歌枕。観音の上に位置する曹洞宗の香澤山安洞院(山口字寺前5)が発行する「奥の細道 芭蕉ゆかりの地 信夫文知摺 みちのくの史蹟」というリーフレットに〈かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「もちずり絹」の産地でした。その名残りをいまに伝える文知摺石は、都からの按察使(巡察官)源融と、山口長者の娘虎女の悲恋物語をを生み、小倉百人一首にも詠まれました」とある。

 綾形石とは模様の摺り出しに用いた自然石で、各家々にあったはず。芭蕉の甥とも従弟ともいわれる桃隣の『陸奥鵆』(元禄9)に「長サ一丈五寸(約315cm)、幅七尺余(約210cm)」とあって、芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途次にこの巨石を見たことを疑うことはできない。しかし、山の上にあった巨石で恋占いをする人が絶えず、麦畑が荒らされることを憎んだ里人が、谷に突き落としたという話は、これまた芭蕉の作り物語である。

 物語は残る。そんな解説をして旅を終えた。

みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふわれならなくに(源融・古今・恋四)
by bashomeeting | 2012-08-29 20:19 | Comments(0)
 医王寺は能「摂待」で知られた義経物語の寺で、『曽良旅日記』が書き残すように佐藤庄司(基治)一族の菩提寺でもある。「寺の門に不入」(『曽良旅日記』)とあるので、芭蕉と曽良は実は寺に入っていない。二人は墓所へ向かい、まず薬師堂を見て、その後ろに「庄司夫婦ノ石塔有」と書いている。薬師堂の「北ノワキニ兄弟ノ石塔有」と書き、「ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年弐本づゝ同じ様ニ生ズ」とも書く。むろんいま、この竹を確認することはできない。ボクは旅の同行者の多くが関心を持っている乙羽の椿に案内し、乙和の椿は「今も蕾のままに散るのか」という質問に答えられぬまま、継信・忠信兄弟、基治夫婦の石塔を拝む。「寺ニハ判官殿笈、辨慶書シ経ナド有由」(『曽良旅日記』)とあって、ゆかりの遺品を芭蕉は見ていないのだが、芭蕉が背負ったと言い伝える笈は宝物館に展示されていた。いつも同様、最後は本堂の如来と「無等差」としたためる額を拝してバスへ戻る。
  その後、いやがるバス運転手氏を説得して、福島飯坂線沿いの菓匠吉兆松屋(花水坂駅そば)に立ち寄ってもらう。義経に命をあづけた佐藤兄弟の弟の名を付けた「忠信最中」を土産にしてもらおうと思ったからだ。直径十五センチの、ピザさながらの巨大最中であるが、残念ながら朝方に買い占められて一つも残っていなかった。予約の必要ありという。ここは片岡鶴太郎の画作を展示するようになって人気をあつめ、その結果、最中も買い占められる時代になったのだと思う。商売繁盛は結構なことだが、ボクらには不便、不満の結末ではある。

  山鳩を追ひつつ小豆摘み急ぐ   山本嘉代子
by bashomeeting | 2012-08-29 19:48 | Comments(0)
 二十六日(日)はまず東滝ノ町の旧堀切邸そばにバスを止めて、花水館(西滝ノ町)の右脇を降りて、渡しの跡と滝ノ湯跡を見学し、同所の「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」碑を見る。芭蕉が入浴したのはこの滝ノ湯とされてきたが、近年は旧堀切邸裏の鯖湖湯説が有力。土地の人に尋ねると、老舗旅館と聞かされていた花水館は閉館したのだという。瀬音につつまれて、しばらく立ち去りがたい。旧堀切邸を一見して、バスを駅に回してもらって、駅そばの芭蕉像をながめて医王寺へ。

  虫鳴くや何年前か指を折り   橋本疎枝
by bashomeeting | 2012-08-29 16:59 | Comments(0)
 八月二十五日の昼食はアサヒビール福島工場(福島県本宮市)のアサヒビール園。はじめて工場見学もした。ホップや二条大麦の噛んでその香りも味わう。その後、高村千恵子記念館(二本松市油井)を一見、路傍の女郎花がまぶしいほどに美しい。そののち飯坂温泉へ。宿は祭屋湯左衛門(福島市飯坂町鍋沢)。奥飯坂に泊まるのははじめてであった。

  女郎花二つに分けて母の墓   谷口かなみ

  
by bashomeeting | 2012-08-29 16:34 | Comments(0)
 八月二十五日(土)十一時十五分、郡山駅に集合して、貸し切りバスの車窓から旧街道筋の街並みを愉しみながら安積山公園(日和田町)へ。後ろの駐車場にバスを止めて、日和田球場の右脇「芭蕉の小径」を歩いて、公園入口に『おくのほそ道』碑を見に行く。郡山市では市制施行50年を迎えた昭和四十九年、芭蕉が探し歩いて見つけられなかった花かつみをヒメシャガと定めて、市の花としている。花の終わったヒメシャガが道々に植えられていた。ただし、「花かつみ」は真菰のことである(鴨長明『無名抄』)。

みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ(不知・古今集・恋四)
花かつみ生ひたる見ればみちのくの安積の沼の心地こそすれ(能因・能因法師集)
by bashomeeting | 2012-08-29 16:04 | Comments(0)

再会◆老眼の以前以後

 ボクが高校教師をやめてから二十八年が経過したのだという。過ぎてしまえば、時間というものはまことにあっけないもので、そんなに昔のことであるという自覚はまったくなかった。

 六月十一日(月)のこと、高校教師時代の同僚に再会する機会があった。彼はボクの高校教師最後の年に一年だけ職場を同じくしていた人で、一年しか一緒でなかったことにとても驚き、とても懐かしがってくれた。別れ際に、二十八年前を再現して、一度ゆっっくり酒でものみましょうという話になった。

 八月十三日(月)、築地に宿をとって、かつての同僚五人が再会した。誘われるままに銀座みゆき通りで酒を酌み、つもる話をして宿に戻り、翌朝は築地場外で贅沢な朝食をとって別れた。

 再会の日は、一時間ほど早めに家を出て、メガネ屋で新しく老眼鏡をあつらえた。この一夜は二十八年の歳月を噛みしめるには十分ではなかったが、老眼の進み具合を受け入れれば、それほどの歳月が流れたことは明らかであった。

  さし上げし手に終りたる踊りかな   芝不器男
by bashomeeting | 2012-08-27 07:27 | Comments(0)

鹿島神宮◆なまずの鈴章

 磯屋閉館で思い出すことは多い。鹿島神宮参道のなまづの「鈴章」もそのひとつ。淡水のあの頼りない味わいが忘れがたい。

  なかなかに髭いそがしき鯰かな  臼田葉子
by bashomeeting | 2012-08-24 19:47 | Comments(0)
 千葉県銚子市のグランドホテル磯屋が閉館になったという知らせをうけた(tanayaさん報知)。理由は東日本大震災後の宿泊客減少。台風に直撃された平成二十一年八月三十日(日)に、仲間と宿泊したことが忘れられない。犬吠埼灯台と太平洋を望む眺望は圧巻であった。

  台風の残せしものに七日月     小野田八重子
by bashomeeting | 2012-08-24 19:38 | Comments(0)
1.八月四日は新潟で前泊して、五日から七日までの三日間、村上市の公民館で『おくのほそ道』の集中講義(スクーリング)の旅である。新幹線社内サービス誌『トランヴェール』は「現代も魅力あふれる『おくのほそ道』の東北」という特集を組んでいた。山寺芭蕉記念館の相原一士さんが取材をうけて、「道中をドラマチックに演出し、その土地の一番の魅力を分かりやすく強調している」芭蕉には「現代でいうところのコピーライター的な一面もあるように思います」と語っていた(残念なことは、ボクがコピーライターのなんたるかを知らないこと)。会場校を引き受けた昨年の俳文学会ではじめてお目にかかった相原さんの顔を思い浮かべた。角田光代のエッセイ「旅の速度」に目を通す。「旅の速度を変えると、見えてくるもの」が違うという内容であった。

2.このたびは宿の確保に苦労した。二年前に一宿した「汐美荘」(瀬波温泉)を手はじめに、あちこち空室を搜し求めたが、海水浴時期というタイミングの悪さで、どこも満室。やむなく、村上の観光協会に相談したところ、日曜・月曜の二日間のみ駅前の「トラベルイン」(田端町)を予約できた。

3.そんなわけで、前泊の宿は新潟駅前「ホテルα-1新潟」(中央区花園)。夕食に周辺を歩いて「河童」(東大通り1) に入る。のっぺ汁とビールでは少しもの足りなくて、久しぶりに甘めの雪中梅を一杯いただく。〆張鶴も並んでいたが、村上の酒は村上にとっておくことに。翌朝「いなほ1号」で村上へ。不味かろうとは思いながら、車内販売のコーヒーを買うが、熱くて唇に火傷(七日快癒)。

4.前日に手紙で飛び入り聴講を希望したSさんを加えて、聴講者わずか六名という贅沢な教室で、初日はそこに福島から卒業論文の相談でやってきたEさんが加わる。その相談も講義の内と考えて、全員のいるところで話し合いを重ね、講義はまず『曽良旅日記』の村上の記事(六月廿八日、廿九日、七月朔日)を読むことから始めた。曽良と村上との関わりや、村上が『おくのほそ道』に描かれなかった理由を考えたのである。

5.この集中講義に合わせて、毎年『おくのほそ道』を追跡にやって来るKOさんとYAさん、さらに山形のTA君が顔を出すというので、それに合わせて今夕は懇親会ということに。場所は「漁師の家 一心」(田端町)であった。そこに向かう前に、公民館のそばにある「味匠喜っ川」(大町)に立ち寄る。土産に冷やし麹甘酒とソギを購入。

6.二日目の午前中は、村上と芭蕉・曽良との関わりを学ぶために、ジャンボタクシーを頼んで歴史散歩。「酒のかどや」(大欠)で、飛び入り参加のK&Yを降ろして、「イヨボヤ会館(内水面漁業資料館)」(塩町、600円)へ。村上藩と鮭の歴史を学ぶ。二年前の旅で、芭蕉句碑が加賀町の稲荷神社と上片町の地蔵堂に各一基・岩船町の石船神社に二基、合計四基あることを承知していたが、距離がある石船神社の見学は断念。地蔵堂の隣りにある宮尾酒造(〆張鶴)も覗いて、徒歩で「酒のかどや」まで戻り、K&Yと合流して、重要文化財の阿弥陀如来を拝みに浄念寺へ。芭蕉と曽良もここにお参りしていて、本堂のホワイトボードにはそうした史実を含めて、講義をした跡と思われる板書が残っていた。浄念寺を出て黒塀の道を歩き、割烹「新多久」(市内小町)で昼食(竹かご弁当)をとることに。午後はK&Yと別れて、午後の講義へ。村上公民館へ戻る途中で、芭蕉と曽良が二泊した宿(大和屋久左衛門。現在、井筒屋として、芭蕉と曽良に振る舞った冷麦を提供している)を左手に眺める。『おくのほそ道』の登場人物について講義。

7.三日目は『おくのほそ道』の構造に連句という文芸が与えている影響と、芭蕉の世界観について考えて、三日間の講義を終了。例年通り、受講者に初めての連句を体験してもらった。発句を案じる際に、由美さんが「今日七日は立秋」と言ったことに始まる作品である。

 「秋立ちぬ」表六句
秋立ちぬ鮭に栄えし城下町   美穂
夕月淡き黒塀の道       泰子
虫の音の小さく朝市賑はひて 由美子
下に二人の弟妹        千恵
新雪の花嫁に幸多かれと    由美
毛糸編みつつ羽越本線     海紅

8.公民館の前に「まちなか循環バス」の停留所があることを教えてもらい、これで村上駅に向かって、「いなほ号」と新幹線を乗り継いで帰途についた。
by bashomeeting | 2012-08-24 10:04 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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