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今年は無月か

 明日は台風ということなので十五夜は期待できない。それならということで、今宵十四日の月を見て眠ることにする。時ならぬ朧月であった。先週の日本文学文化特講という講義で九十分間明月の話をして、ぜひ三十日の月を見てほしいと言ったのだが、彼らも台風が来ることに気づいて、今宵の月をながめているだろうか。

  十五夜に蒔いてをりしは何ならん    戸井田和子
  十五夜の厩に馬の顔二つ         橋本 疎枝
  十五夜が牛産まる日と戸に記す     長沼みちよし
  墓いかに良夜いかにと思ふなり     堀  みのる
  選びたる大きな芋を月にあげ      鈴木  雨滴
  蜘蛛の巣に蜘蛛の出てゐる良夜かな 沢井山帰来
  アパートの交はりうすき良夜かな    宮本  公彦
  大根の大きくなりし良夜かな       室生 砺川
  追伸は若しも無月の時のこと      田中 都南
  鴨少し鳴きていよいよ無月らし      鷺   孝童
  濡縁のまた濡れてきし無月かな     小林貞一郎
  ががんぼのガラス戸叩く無月かな    水野 温子
by bashomeeting | 2012-09-29 21:10 | Comments(1)

  空蝉     椎名美知子

埋もれた落ち葉を掃き寄せたら
かびくさい土の匂いがした

庭に
鮮やかな一枚の黄葉が置かれてから
昼も夜も散り積もり
朽ち沈んで
もはや明らかな色も
羽ばたく音もない

かつてこの家の隅々まで
生きていて
庭木の枝先まで血が通っていた

この玄関の格子戸は私が磨いていた
張りのある父の声は下の畑からも届いた
台所からは煮物の匂いと母の声
兄も弟もそれぞれ忙しかった夕暮れ時
水を撒かれた庭の気持ち良かったこと

幻影のように音もない
遠のいた歳月に
冬の薄日が灰色を重ねていく
空蝉の家に



〔解題〕詩誌『沙漠』№268(平成24年9月)所載。 発行者 河野正彦(〒802-0826北九州市小倉南区横代南町3丁目6-12) 
by bashomeeting | 2012-09-24 19:31 | Comments(0)

 今朝、山下一海先生の『見付けぬ花―知られざる芭蕉の佳句』(平9.7 小沢書店)を読んでいたら、『荊口句帳』にある「越の中山/中山や越路も月はまた命」 (55頁)を解説して、芭蕉句の「命」は「西行と現在をつなぎ、若年の芭蕉と今の芭蕉を貫いている。芭蕉の一句は、常に芭蕉の生涯という一つの大きな作品の一部分なのである」と結んでいた。

 このことにまったく異議はないが、もう少し丁寧にいえば、次のようになるだろう。

 誰のどんな句であっても、それは作者の生涯という一つの大きな作品の一部なのであるが、芭蕉の場合は、他の作者にくらべて、きわめて強固なつながりをもっている。

 かつて、拙稿「蕪村の発句―その魅力と限界」(『国文学 解釈と鑑賞―特集・与謝蕪村 その画・俳二道の世界』平13.2)を「芭蕉には編年体の句集が似合い、蕪村には類題の句集がふさわしい。それは芭蕉の人生の変化がそのまま作風の変化と重なるとうに見えるのに対して、蕪村の作風が生活の変化で大きく異なることはなかったからである」と書き出したことがあるが、これも同じ主旨を述べたつもりである。芭蕉は生涯と作品が露骨につながることで心の安寧を得たが、蕪村はそうしたつながりを断ち切ることで平安を獲得した。両者はそうした意味で、正反対のこころねの持ち主である。

 
by bashomeeting | 2012-09-23 11:52 | Comments(0)

御蔭とよべる道

御蔭とは神仏のたすけのことであった。いま神仏の部分はうすめられ、恩恵とか影響という意味に留まっている。震災を神仏のたすけなどという人はいない。あくまでも地震の災害である。災害は被害である。だが、時が過ぎるにつれて、その影響は今以上に多方面におよぶであろう。とすれば、その影響のなかには恩恵と呼べるものも含まれるはずである。神仏のいない時代でも、だから御蔭と呼んで感謝すべき領域はあるにちがいない。悲しんで、泣いたあと、やはりボクらは歩くことになる、御蔭とよべる道をさがして。

 なんか青臭いメッセージソングみたいで、身の毛立つけれど、のちのために残す。


  百姓の待ちたる雨や貝割菜     永松西瓜
by bashomeeting | 2012-09-17 06:18 | Comments(0)

誤解された与謝蕪村

蕪村はものを言わなかった、自分を語らなかった。
そうした生々しいものから離れることが、彼の望みだった。
姿を鏡に映すより、むしろ己が影を踏む痛みにやすらぎがあった。
いや、影の外にある万象に身を投ずるほうが、さらに安寧であった。
漢詩を語れという意味はそういうことではなかろうか。
それを写生というのは誤解だろう。

  野路行けば野路の心に爽やかに    山崎掬女
by bashomeeting | 2012-09-17 05:52 | Comments(0)

夜の雨

夜の闇を雲の暗さが蔽い、
こらえかねたように、秋の雨が降っている。
原稿が少しはかどるような気になる。

  烏賊漁に欠席ふえし夜学かな   赤坂ひろ子
by bashomeeting | 2012-09-17 04:26 | Comments(0)

写し絵

 自分に他者と区別すべき独自の感情があるという思い込みを捨てるまでに何十年もかかる。自分というものがあるとして、それは海の音や、月明かりの写し絵にすぎないとわかるまでに何十年もかかる。むろん、わからないで終わる人もいる。

 エアコンのスイッチを切って、窓をあけて、虫の声と秋風を感じながら、そんなことを考えた。こんなことを考えているから、仕事がすすまない。

   坑夫減り淋しくなりし子規忌かな   河原好枝
by bashomeeting | 2012-09-14 01:50 | Comments(0)

 肉親の殺害や、少女誘拐監禁というたぐいの事件をTVで解説して、ある法律学者が〈「隣は何をする人ぞ」というような、近所づきあいのない、無関心な時代〉に問題があると分析していた。「隣は何をする人ぞ」というのだから、たぶん芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」という句を念頭に置いてのことだろう。

 しかし、こうした引用はきわめて安易。この句は元禄七年、芭蕉が最後の旅で、大阪に病臥してその床から、翌日に門人宅で行われる予定の俳諧のために送りつけた発句で、句意は〈旅で病に倒れて、見知らぬ町で引きこもっていると、隣家の物音が聞こえる。どんな人がどんな暮らしをしているのか、人恋しく、心細い晩秋だ〉という意味であって、近所づきあいに乏しい社会の説明に役立つ句ではない。法律学者の意味するところとは正反対の心情といってもよいだろう。作者の境涯とともに解釈しなければ誤ってしまう、そういう芭蕉の句の引用はまことに難しいといってよい。

  皆とゐていつも孤りよ草の花    前田  明
by bashomeeting | 2012-09-05 10:57 | Comments(0)