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海紅山房日誌

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芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。

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◆問い:「牡丹散て打かさなりぬ二三片」の「散て」はどう読むのか。
1.この場合の「散て」は「チリテ」という読みに落ちついている。その根拠は安永九年七月二十五日付の几董宛蕪村書簡に「ぼたんちりて」と表記されているからである。だが「チラデ」と打消に読む場合はともかく、「チツテ」と促音で読んでも意味は変わらない。試みに〈Peony flowers are gone.and Two or three pieces are piled up in the ground.〉と英訳してみれば、「チリテ」「チツテ」にある差異など、詩の根幹にかかわる相違でないことも明らかだ。

2.だから、ボクには飯島晴子の次の文章はコジツケのようにしか読めない。俳句と発句を別物に扱いたい、近代俳句を特別なものにしたいと駄々をこねているように思える。

 連句の発句というのは、言葉一行が一つの“もの”になつてはいけないのではないかということである。何らかの方向へ、意味の紐を垂らしておかなければいけないのではないかということである。これは俳句とは決定的に異なるところである。
  牡丹散(ちつ)て打かさなりぬ二三片
これには、最後の結果として、意味を述べてはいない。十七音で一つの時空を完結していて、具体的にはとりつくしまがないが、だからこそ、これはこのままで、時代を超えて誰のものにでもなる、普遍的な、終りのない時空となつている。四方八方、あらゆる方向へ、目に見えない紐を放射しているようなもので、それでは、連句の発句には不適格なのであろう。「チッテ」と「ちりて」には、芭蕉五月雨の句の「涼し」と「早し」と同じくらいの違いがある。(『俳句』昭52・11、特集「俳句と俳諧」所収)

3.ちなみに、「俳句は今も発句(ほつく)である」ことは、「俳句教養講座」第一巻『俳句を作る方法・読む方法』(角川学芸出版)に「俳句的ということ」という題で書いている。批判してもらえれば幸い。

4.なお、古典における送り仮名は省略される例が少なくない。その理由は〈過不足なく送る〉という常識がないためである。また、文字数や筆記の手間を省力化するという経済学や、〈読み誤るはずがない〉という相手の教養への信頼があるためだ。懇切丁寧を尽くすことが、先方の教養に対して失礼にあたる場合もある。もっとも中間・期末テストや漢字検定のない時代の話ではあるが。
by bashomeeting | 2013-05-11 05:58 | Comments(0)
◆問い:蕪村の時代、すでに連句の座は壊れていたか。
1)連歌俳諧には理非を裁断する人が必要である。それは宗匠である場合とそうでない場合とがあるが、その判断が作品の展開を左右する以上、一巻は捌き手の作品であるといえる。だが捌かれる付句(候補作)は連衆(他者)から提出されることから、芭蕉は〈連句は相手次第の文芸である〉という主旨のことを述べている(元禄五・五・七付、去来宛)。つまり捌き手の作品とは付句作者との合作という意味でもあった。厳密に言えば、芭蕉が捌いた付合(長句短句の組み合わせ)だけが蕉風といってよい。このレベルの連句の座は以後生まれず、壊れていたと言ってよい。

2)文学史は、蕪村の時代を仮に中興俳諧期と名付けている。この名称は芭蕉没後の俳諧が衰えていたことを前提にするものである。芭蕉俳諧の根幹は連句(付合・俳諧の連歌)であるから、蕪村の時代の連句の座もすでに壊れていたという史観は正しい。連句の大衆化は進んでいたから、たしなむ人はむしろ増えていくが、蕉風のレベルに並ぶものはなかった。捌き手のもとに連衆が集まれば座が生まれる、その意味では蕪村の時代にも連句の座はあったが、そのレベルを中興と評価できるかどうかはあやしい。連句芸術の名に価するものは芭蕉一代限りだったと判決されないように、蕪村の時代の研究者の研鑚が求められる。

3)蕪村は明和三年(一七六六)に三菓社句会を結成。だがこれは画家としても蕪村を支えてくれる富裕層を含む、同好の知己による集まりで、兼題発句の学習会。よって連句に精通する俳人は少数。

4)明和七年(一七七〇)から八年にかけて、蕪村は先師宋阿(巴人)の夜半亭を継承し、俳壇交流が盛んになるが、一門としての連句興行に見るべきものは多くない。というか、連句に力を入れているように見えない。

5)安永八年(一七七九)、几董を育てることを目的にしたと思われる檀林会という連句修練の会を作るが、その記録『連句会草稿』には「花見たく」二十五句(安八・四)、「野の池や」二十三句(安八・五)などが残るだけで、すぐ発句会に戻ってしまう。蕪村の膝元にすぐれた連句の座は成立しなかったとみる。

6)付けたりととして記憶に留めておいてほしいが、「選は創作なり」(『汀女句集』虚子序)という有名な言葉に続いて、次のようにある。

今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力が合待つて出来たものと思ひます。あなたには限りません、今日の其人を作り上げたのは、其人の力と選の力とが相倚(よ)つてゐるのであります。

 この見識は連句の捌きに通うものがある。自分を発見してくれる、すぐれた選者に逢えなければ、俳句など作っている意味はない。
by bashomeeting | 2013-05-11 05:55 | Comments(0)
 『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉の免疫力はかなり落ちていたと思う。下記の箇条書きのようなハードスケジュールと静養の跡をたどると、そのようにしか思えない。没年である元禄七年の、江戸→伊賀→大津→嵯峨→伊賀→奈良→大坂にて客死へとたどる道筋は、以下のような果敢で過激な挑戦の総決算であったか。だが、落ちてゆく免疫力は否応なく「重み」を自覚させ、かえって「軽み」の実現を速めることになったであろう。『ひさご』(元禄3)、『猿蓑』(元禄4)、『別座舗』(元禄7)、『炭俵』(元禄7)、『続猿蓑』(元禄7)などは、こうした免疫力低下との戦いの産物とは言えまいか。

1,元禄二年九月下旬から十一月末に春日若宮御祭を見に奈良で出かけるまでや、元禄三年正月三日から三月下旬までの郷里滞在。
2,「四国の山踏み、筑紫の船路」(荷兮宛元禄三・一・二書簡)に心ひかれながらも、同三年四月六日から七月二十三日までの幻住庵(国分山)における静養(「幻住庵記」)や、初めての木曽塚(無名庵)滞在(八月)、そして九月末から十一月初めまでの帰郷。
3,元禄三年歳末「木曽塚の坊」(去来宛元禄三・十二月推定書簡)、すなわち無名庵で越年して、元禄四年の歳旦吟を休んだこと。
4,同四年一月上旬にはまた郷里に戻り、三月末まで滞在の事実。無名庵竣工(正秀宛一月十九日付書簡)を経て、四月十八日から五月五日までの落柿舎滞在(『嵯峨日記』)。
5,同年九月末、膳所の無名庵を出て、住むべき芭蕉庵がないことを承知の帰東。
6,元禄五年の「風雅三等之文」や『芭蕉庵三日月日記』、元禄六年の「閉関之説」の執筆。
by bashomeeting | 2013-05-04 20:51 | Comments(0)
 インフルが治ったあと、親しい人から〈多忙による疲れで、免疫力が落ちていたのですね。無理をしないで下さい〉とやさしい言葉をかけられた。免疫力とは、もとから身体に備わっている防衛システムのことで、感染症はこの機能の低下によるのだという。

 ふと、詩歌にも似たようなことがあると思った。どんなに深刻な主題を扱っていても、免疫力の弱っているときにできた作品は重くれて、読者の共鳴を得がたい。ボクは著名な句を時折「イヤな句」と評して、仲間から顰蹙を買うけれど、そうした句を詠むときの作者は、心の免疫力が弱っているのではなかろうか。例えば、教科書に取り上げられるような名句でも、次のようなものは免疫力が弱いときの作物に思える。ボクに言わせると「イヤな句」で、教科書に取り上げようという見識が理解できない。

  冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城
  白露や死んでゆく日も帯締めて   三橋鷹女
  霜の墓抱き起こされしとき見たり   石田波郷

 どの句も人生の重大な事柄を詠んでいるのだろうが、それを俳句という不十分な詩型に盛り込もうとすれば、この三句のように独り善がりで、思わせぶりになってしまう。こうした重々しさは、俳句が近代文学の範疇に取り込まれてもてはやされた痛々しい努力であって、古典俳句にはないように思う。つまり、近代文学が諧謔という古典俳句の諦観を軽んじた結果なのだ。この近代と格闘できるのは小説・戯曲・随筆や評論なのであって、詩歌ではない。詩歌には詩歌の、つまり俳句には俳句の面目があり、一分があるだろう。
by bashomeeting | 2013-05-04 09:03 | Comments(0)

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