「論文を読む会」のカタチ
2006年 11月 28日
Nさんを司会とし、まずE氏が、この論文が発表された時代に戻して読むべき必要を説き、昭和六年がどういう年であったかを文壇や世相を通して啓蒙してくれた。次にY氏が、秋櫻子の考え方を日本古典文学史の上で吟味し、その主張の概ね穏当であること、論調に見られる気負いは当時の俳壇情勢を踏まえてやむを得ないことを明らかにした。
司会のNさんも、当時秋櫻子の追い込まれていた環境には同情すべき点が多いとし、俳壇史的なる問題から作品論的な話題に置換することを提案し、Kさんからは背景や師系に縛られない本格的な検証を希望する発言があり、出席が危ぶまれていたHさんも見えて、一つの問題を解明する姿勢として、この「論文を読む会」の多角的な切り口に賛意を示された。
海紅は、江戸の昔から、俳壇の対立が文学論たりえたことは少なく、不毛に終わることが多いこと。「自然…」と「文芸…」という対立軸が幼稚で、その論拠とする深田康算著『深田康算全集』、金子築水著『芸術の本質』なる書を探し出してでも読むべきであること。「為にする言説」という印象がぬぐえないので、当時の秋櫻子を支える人々を丁寧に調べるべきこと。広く文化に属する組織を、血つまり血縁で継承する原始性・野蛮性を黙止すべきでないことなどを話題にした。
次回は今回の意見交換の中から任意のテーマを選んで考えを整理して臨むことにした。参加者の話を伺いながら、とりとめなくメモしたものは以下の通り、「戦争前夜と日本文学」「進歩史観の流行」「真実とは何か」「写生と客観写生」「客観は可能か」「巻頭句とは何か」「師系と作風」「個我と私」「写実と印象」。
「論文を読む会」のあるべきカタチが少し見えてきたのではなかろうか。