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「論文を読む会」のカタチ

  二十六日(日)の午後の三時間をかけて、予定通り「論文を読む会」をおこなった。テキストは水原秋櫻子「『自然の真』と『文芸上の真』」である。
  Nさんを司会とし、まずE氏が、この論文が発表された時代に戻して読むべき必要を説き、昭和六年がどういう年であったかを文壇や世相を通して啓蒙してくれた。次にY氏が、秋櫻子の考え方を日本古典文学史の上で吟味し、その主張の概ね穏当であること、論調に見られる気負いは当時の俳壇情勢を踏まえてやむを得ないことを明らかにした。
  司会のNさんも、当時秋櫻子の追い込まれていた環境には同情すべき点が多いとし、俳壇史的なる問題から作品論的な話題に置換することを提案し、Kさんからは背景や師系に縛られない本格的な検証を希望する発言があり、出席が危ぶまれていたHさんも見えて、一つの問題を解明する姿勢として、この「論文を読む会」の多角的な切り口に賛意を示された。
  海紅は、江戸の昔から、俳壇の対立が文学論たりえたことは少なく、不毛に終わることが多いこと。「自然…」と「文芸…」という対立軸が幼稚で、その論拠とする深田康算著『深田康算全集』、金子築水著『芸術の本質』なる書を探し出してでも読むべきであること。「為にする言説」という印象がぬぐえないので、当時の秋櫻子を支える人々を丁寧に調べるべきこと。広く文化に属する組織を、血つまり血縁で継承する原始性・野蛮性を黙止すべきでないことなどを話題にした。
  次回は今回の意見交換の中から任意のテーマを選んで考えを整理して臨むことにした。参加者の話を伺いながら、とりとめなくメモしたものは以下の通り、「戦争前夜と日本文学」「進歩史観の流行」「真実とは何か」「写生と客観写生」「客観は可能か」「巻頭句とは何か」「師系と作風」「個我と私」「写実と印象」。
  「論文を読む会」のあるべきカタチが少し見えてきたのではなかろうか。
# by bashomeeting | 2006-11-28 05:44 | Comments(3)

俳諧はなくてもあるべし…

  後期文学講習会を引き受けて、江東区芭蕉記念館に出かけた。十月十九日(木)から週一回の講座で、十一月十六日(木)にその全五回を終了した。「もうひとつの蕪村句集」というタイトルで、蕪村書簡とそこに記録される句を通して、蕪村の全体像を紹介した。聴講者の多くは七十歳代で、そのひたむきな眼差しに胸をうたれた。友だちがふたりできた。
  七日(火)は大学の講義を休講とし、俳誌『葛』創刊記念俳句大会に参加した。百余名の出席者のほとんどが三十年来の知己であり、顔見知りであって、懐しいことこの上ないのだが、それを素直に言葉にも表情にも出せないわけは、世事に忙しくて多くの人々に無沙汰をしていることからくる遠慮と、お互いの加齢を受け容れるのに十分の時間がなかったからだ。言葉の足りなかったところは、これから句作で補うしかないだろう。このことは、翌週の講義でも触れた。休講の内実を知ってもらうために。
  十一日(土)、坂口安吾生誕百年記念講演会とシンポジウムを聞きに東洋大学へ。Oさん、Tさん、Kさんなどの顔が見えて、目であいさつ。講演は荻野アンナ氏「安吾の中のフランス」、山折哲雄氏「安吾と悪」の二題。帰途、風邪の自覚症状を覚え、今に至るまで完全には復調していない。やはり安吾は身体によくないのかもしれない。
 過日、Wさんからひさしぶりに便りがある。最近、自力では寝起きがむずかしくなった母上の御世話で、論文執筆も滞りがちの由。今は、芭蕉の「俳諧はなくてもあるべし。ただ世情に和せず、人情に通ぜざれば、人調はず」(『三冊子』わすれみづ)という言葉を大切に思って暮らしているともある。かけがえのないものと正面で向き合うこと。それを抜きにして、文学なんぞありえない。改めて芭蕉に、そしてWさんに敬服。世情にうとく、人情を解せないことの、なんと恐ろしいことか。
# by bashomeeting | 2006-11-24 18:03 | Comments(0)

不快な読後感

  ミニ四駆の大会に出るという息子とその友達の付き添いとして、朝早くから品川シーサイドへ出かけた。子どものころに、こうした資金のかさむ遊びをしたことがないボクは、息子やその友だちから見ても、不機嫌な保護者に映っていたに違いないが、こうした生活の一齣も文学そのものであると考えているボクは、ボクなりに彼らの心地よい一日を支えたつもりである。すなわち、会場を眺められる距離にある喫茶店PRONTOで、百八十円のコーヒーをお代わりしながら、秋櫻子の「自然の真と文芸上の真」をほぼ読み終えた。そして、多くの優等生は、こんな文章によって俳句の近代が始まったと考えてきたのかと落胆するばかりで、読後感は不快であった。帰途、晩秋の満月がくっきりと見えている。この月を見たことで、今日は是としようと思う。
# by bashomeeting | 2006-11-05 21:45 | Comments(2)

勇気づける仕事

 このところよく働いている。稿債を整理できるほどではないが、今しなければならぬことから眼を逸らしていないせいであろうか、その疲労は心地よい。先月の二十八日(土)、二十九日(日)と、誘われて奥日光に遊んだことも復調の一因である。ゆりかごに掛かる毛布のように暖かく、一方で四面楚歌でも聞こえそうに見える落葉松黄葉の屏風が今も瞼に焼き付いている。誘ってくれた仲間に感謝。今日一日茅屋に居られるので、鳩の会の会報を仕上げよう。これも私を勇気づける仕事のひとつになるだろう。
# by bashomeeting | 2006-11-04 11:34 | Comments(0)

漂流と漂泊

 貞享四年(一六八七)の冬に、芭蕉は流謫の身にあった門人杜国を伊良湖岬に訪ねて、
       鷹一つ見付てうれしいらご崎   (笈の小文)
と喜んだ。また、明治三十一年(一八九八)の夏には柳田国男が伊良湖に滞在し、そこで得た椰子の実の話を島崎藤村に語って、国民歌謡「椰子の実」(藤村『落梅集』)が生まれた。
 だが、鷹と椰子の実ではものが違う。いかに遠き島から流れ着くとはいえ、椰子の実が海に漂うていても漂泊とは言えず、せいぜい漂流であろうか。漂泊とは精神のことなのである。
# by bashomeeting | 2006-10-23 14:35 | Comments(2)

芭蕉会議の谷地海紅(快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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