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勇気づける仕事

 このところよく働いている。稿債を整理できるほどではないが、今しなければならぬことから眼を逸らしていないせいであろうか、その疲労は心地よい。先月の二十八日(土)、二十九日(日)と、誘われて奥日光に遊んだことも復調の一因である。ゆりかごに掛かる毛布のように暖かく、一方で四面楚歌でも聞こえそうに見える落葉松黄葉の屏風が今も瞼に焼き付いている。誘ってくれた仲間に感謝。今日一日茅屋に居られるので、鳩の会の会報を仕上げよう。これも私を勇気づける仕事のひとつになるだろう。
# by bashomeeting | 2006-11-04 11:34 | Comments(0)

漂流と漂泊

 貞享四年(一六八七)の冬に、芭蕉は流謫の身にあった門人杜国を伊良湖岬に訪ねて、
       鷹一つ見付てうれしいらご崎   (笈の小文)
と喜んだ。また、明治三十一年(一八九八)の夏には柳田国男が伊良湖に滞在し、そこで得た椰子の実の話を島崎藤村に語って、国民歌謡「椰子の実」(藤村『落梅集』)が生まれた。
 だが、鷹と椰子の実ではものが違う。いかに遠き島から流れ着くとはいえ、椰子の実が海に漂うていても漂泊とは言えず、せいぜい漂流であろうか。漂泊とは精神のことなのである。
# by bashomeeting | 2006-10-23 14:35 | Comments(2)

月の仏となり給へ

 名月の夜にJ君が亡くなって、ふた七日が過ぎた。三十九歳であった。東京下町の人の好さとは、こういう優しさをいうかと思える男で、何年御無沙汰しても、再会すれば私のゼミにいたころのままの彼であった。好きな女がいると言いながら、何年も一緒にならないので心配したが、ついには一途を通して結ばれ、細君はいま二人目の子を宿していると聞いた。去る五月の芭蕉会議発足の集いに誘ったところ、私のわがままを聞いて、細君と息子さんを同伴してくれた。それが最後であった。無理に誘っておいてよかった。通夜の月は美しく、彼の友人らと思い出の街にくりだし、みんなでたくさん泣いた。

月の友月の仏となり給へ    海紅
# by bashomeeting | 2006-10-22 16:28 | Comments(1)

書きかえられた本意

 安居(あんご)は、あえて暑く辛い時期を選んで行う修行であると学び、そう信じてきた。夏籠(げごもり)も夏解(げだち)という文字も、そのような艱難辛苦をすすんで選び取る景色に見えていた。だが本来は雨季の意で、インドにおける雨季の暑さや災難、猛獣などの危害を避けて、修行に専念することを目的とするものであることを知った。恥ずかしながら、最近のことである。本意がまったく逆ではないか、と少し腹立たしい気がした。無知の自分にではなく、こうした受け容れ方をする権威に対してである。
# by bashomeeting | 2006-10-10 09:58 | Comments(4)

「切れ」というレトリック

 片山由美子さんの評論集『俳句を読むということ』(角川書店)が届く。巻頭に「現代俳句における切れの認識」がある。読み始めたい衝動を抑えて、まず自分の思考を整理しておかねばならぬ。

 詩歌は音楽である。音楽は、常にそのすべてが備わっているとは言えまいが、旋律(メロディー)・和音(ハーモニー)・拍子(リズム)の三要素から成っている。俳句も韻文、つまり詩であるから音楽である。よって、この三要素と無関係には成立し得ない。
 俳句の要件として、よく「切れ」が取り沙汰される。これは詠嘆の在処を示すため、読み手(聞き手)を立ち止まらせるための装置で、文の構成法としては省略・中止・倒置に属する。それが音楽の三要素のどこかを刺激し、抒情に奉仕する。「切字」は「切れ」の具体例のひとつで、すべてではない。「切れ」は俳句に限らず、韻文ジャンル全体に不可欠な要件である。散文と区別される基本条件と言ってよい。
# by bashomeeting | 2006-10-10 07:45 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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