銚子の文化講演会のあと、聴講者にまじっていた卒業生から便りをいただいたり、主催の教育委員会のSさんから、同委員会発行の冊子『銚子と文学者とのふれ合い』を送られて、銚子に文学碑の多いことに驚いたりしている。すべて講演の余韻である。
それにしても、人はなぜ歌碑・句碑や詩碑の類を遺すのであろうか。直感的なことながら、この様式は「壁に題す」(壁に詩文を書き記す)という漢詩の歴史に端を発するものではないか、以前からこう考えてきた。
「壁に題す」という成句は小学校六年生の時に教えられた。ボクのふるさとに限らないであろうが、ベビー・ブーム(なんというイヤなことばであろう)と呼ばれた世代の小学校は、一クラス六十名ほどに溢れかえり、登校時刻をずらして二部に分けたり、科目ごとに教室を移動したり、いろいろ工夫しても従来の教室数では間に合わず、新しい小学校ができて、住居の近いボクは五年生の五月にその新しい小学校に移された。そこの最初の校長先生が紺谷秀次という人で、週に一時間だけ教科書のない授業をしに教室に現れた。
― 意味は考えなくてもよい。大きくなればわかるから…。
そう言って、漢詩を黒板に書き、音読させた。そこで菅原道真や頼山陽の名を覚えた。「壁に題す」は村上文三の詩題であった。
壁に題す
男児志を立てて、郷関を出づ。
学若し成る無くんば、死すとも還らず。
骨を埋む、豈惟墳墓の地のみならんや。
人間到る処青山有り。
内容にむずかしいところはなく、なんとなく納得して大人になったが、高校教師のころに、同僚から「青山」とは〈死に場所〉であり、〈墓場〉のことであると聞かされて驚いた。
こういう思いこみがあるからであろうが、文学碑類を悲壮な決意がこめられたものとして見てしまう。同じ理由で、見るのがイヤになることもある。その微妙な気分を整理したくて、数年前から『諸国翁墳記』を調べ続けている。
『おくのほそ道』の序が〈面八句を庵の柱に懸置〉(曽良本)と結ばれていることは御承知の通り。仏頂が芭蕉に〈「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と松の炭して岩に書付侍り〉(同)と語ったという雲巌寺の一節も周知の通り。これもボクのいう漢詩の歴史までさかのぼる様式であると思いたいが、平成十年に宮脇真彦さんが研究発表で日本古典文学から用例をたくさんあげているので、論文として読ませてもらうことを心待ちにしている。
もう、とうに亡くなっているはずの紺谷先生に会いたくなった。
― おまえに運といえるようなものはなかったが、いつも先生には恵まれていたよ。
これはボクに対する母のくちぐせであったが、その母も今はもういない。
ともすればかなしびごとをつたへきて五月雨の夜のさみだれの音 ケサイ
母の死を告ぐる五月雨とも知らず 海紅