やさしい無関心
2006年 08月 07日
六月半ばに母の野辺送りを済ませた私が、いま日記まがいのことに手を染めれば、カミユの『異邦人』のムルソーのようにボロボロになってしまう気がして、混沌としていたからだ。
この小説は〈きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった〉と始まる。
引用は窪田啓作訳による新潮社の世界文学全集39『異邦人・ペスト・転落』(昭和42)による。この全五十冊からなる全集には、むかし企業に就職して、自分のお金で本が買える喜びを味わった懐しい思い出がある。退職して津軽海峡を越えるときに、『魔の山』『ジャン・クリストフ』『狭き門』などと共に運んだ。
ところで、主人公ムルソーは〈人間は誰もが死刑の宣告を受けている存在〉であるとし、何事にも〈どっちでもいい〉〈ボクには関係ない〉と考えがちな男で、社会性や宗教的倫理観の外側にあって、人生に取り立てて生きる意味を見いださない男として読者の前に投げ出され、〈太陽が眩しかったから…〉という曖昧模糊とした理由で殺人を犯して裁かれる。読後、不条理すなわち〈人間はなぜ死へ向って歩まねばならないのか〉という問題を突きつけられた本であった。説明のつかない将来を抱える思春期の只中にあって、〈ムルソーとは自分のことである〉と思った青年は少なくなかったと思う。
私もひどく落ち込んだ末に、この世にすでに生きている〈私〉は、かつて〈ある誰か〉にとっては意味ある存在であったに違いないこと。それ以上の生きる意味は、〈私〉が主体的に創出すべきものであること。社会は〈無関心〉で、他人を哀しむようにはできていないが、それは憎悪に満ちたものでなく〈やさしい無関心〉であること等を手掛かりにして、『異邦人』からの脱出をはかった。それは芥川や太宰を遠ざけるようにしたころと一致する。
母の死とは、新しいことを始めるにふさわしい時機であるかもしれない。
遠い思考回路を整理しつつ、こんなふうに思った。