スポーツの一部に遊びを起源とするものがあるように、俳句の始まりも和歌や連歌から解放された遊戯であった。しかし、それを享受する者が増えて、競い合う段階に進むと、審判や判定する基準が必要になり、それを職業とする俳諧師が生まれた。
芭蕉はこの俳諧師をめざして伊賀から新興都市江戸へ下る。二十九歳だった。郷里でほどほどの名望があった彼は希望通り俳諧師(職業俳人)となるが、やがて点取俳諧(俳諧師が批評した評点の多寡を競う文芸)に違和感を覚えて俳壇を離脱し、旅を日常とする人生へと舵を切る。
我が師、村松友次(紅花)は明治の『ホトトギス』に始まる俳句誌の様態(月例のコンテスト)は、芭蕉が嫌悪した点取俳諧を継承するものだと言っていた。『ホトトギス』で育って、芭蕉学者であった先生はその矛盾を誠実に生きたが、私は先生との話し合いを経て、ある時期に俳誌への出句(投句)をやめた。それが芭蕉に、あるいは先生の教えに従うことであると考えたのである。
啄木忌われに新聞少年期 海 紅
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