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思い出す人がいるかぎり◆たしなみ俳句会会報(No.115)より転載

 私を俳文学研究者の端くれに育ててくれた研究会の名は俳文芸研究会という。その月例会を私の研究室で引き受けた期間はちょうど二十年になる。正式には解散した研究会ゆえ、「俳文芸その後」とでも呼ぶべき時代であった。
 旧来のメンバー有志に若手研究者も加えて、すでに終えている輪講の原稿化を軸にしたが、タガが弛んで座談は俳文学全般や思い出話に花がさく。こうして、恩師と呼ぶべき先生方に、月に一度の茶飲み話の場を用意出来たことを、私はささやかな恩返しであったと思い出している。思い出す者がいるかぎり、先生方は生きているのだと信じつつ。

  どことなく淋しき留守居籠枕   海 紅


# by bashomeeting | 2024-08-17 12:22 | Comments(0)

その翌朝に◆霊あらば親か妻子のもとに帰る靖国などにゐる筈はなし 市村 宏(『東遊』)

わたしが一番きれいだったとき   茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね      ―『茨木のり子詩集』―
# by bashomeeting | 2024-08-16 11:33 | Comments(0)

俳人として大切なこと◆たしなみ俳句会会報(No.114)より転載

 私を俳文学研究者の端くれに育ててくれた月例の研究会は代表のI先生の研究室(お茶の水女子大・文京区大塚)で行われ、年二回の機関誌を発行していたが、平成六年(一九九四)十二月で終刊。これで公式な歴史は閉じたけれど、H先生の「月例会は君の研究室で続けるから」というお達しにより、I先生長逝後の平成十一年(一九九九)一月から私の研究室をその会場とし、定年まで続けた。それは恩義のある先生方をお一人ずつ野辺送りする歴史で、同時に私自身の来し方行く末を考える時間であった。
 紅花(村松友次)先生に〈研究者も俳人も捨てずに済む「芭蕉会議」という会を作って、そこを居場所にしたい〉と申し上げ、了解を得たのはそのころである。
「芭蕉会議」では芭蕉の言説に従って、以下の三点を理念に掲げ、蕪村らが採用していた衆議判に似た、互選という方法の大切さを説き続けている。

 第一に〈俳句より私生活を優先すること〉
 第二に〈俳句会では何より再会をよろこびあうこと〉
 第三に〈俳句会ではよい読者を目指すこと〉

  滴りにバケツ据ゑたるソロキャンプ 海 紅
# by bashomeeting | 2024-07-18 21:55 | Comments(0)

マイノリティの道をゆく◆たしなみ俳句会会報(No.113)より転載

 結果として終生師事した紅花先生は短期大学所属で、私の在籍する大学院に講座はなかったけれど、俳文学会や関連の月例会、有志の学者で構成される研究会に加えて、虚子や素十系の俳句会へと導いてくれた。そこでわかったことは、私がマイノリティであること。つまり〈研究者に似て、俳人〉、言い替えれば〈俳人に似て、研究者〉という不徹底な輩に見えることだった。ために、このごろ旧交を温めることになった俳人から、「君は紅花先生を継がなかったのだね」と言われたりする。その際には少し考えて、「いや、継いでいるつもりです」と答えることにしている。無論、師匠のようにはゆかないのだけれど。
 この「たしなみ俳句会」は東日本大震災後に、「市民の渇を癒やしたい」という地元の要請から生まれた。「松尾芭蕉の講座」を経て、その受講者に「俳句をたしなむ喜び」を説けということだった。傲慢とは思いながら、〈俳人とも、研究者ともつかない〉私にお似合いの御縁であった。

  安寧を知らする枇杷の皮を剥く    海 紅 


# by bashomeeting | 2024-06-21 10:59 | Comments(0)

俳句誌の様態と相性◆たしなみ俳句会会報(No.112)より転載

 スポーツの一部に遊びを起源とするものがあるように、俳句の始まりも和歌や連歌から解放された遊戯であった。しかし、それを享受する者が増えて、競い合う段階に進むと、審判や判定する基準が必要になり、それを職業とする俳諧師が生まれた。
 芭蕉はこの俳諧師をめざして伊賀から新興都市江戸へ下る。二十九歳だった。郷里でほどほどの名望があった彼は希望通り俳諧師(職業俳人)となるが、やがて点取俳諧(俳諧師が批評した評点の多寡を競う文芸)に違和感を覚えて俳壇を離脱し、旅を日常とする人生へと舵を切る。
 我が師、村松友次(紅花)は明治の『ホトトギス』に始まる俳句誌の様態(月例のコンテスト)は、芭蕉が嫌悪した点取俳諧を継承するものだと言っていた。『ホトトギス』で育って、芭蕉学者であった先生はその矛盾を誠実に生きたが、私は先生との話し合いを経て、ある時期に俳誌への出句(投句)をやめた。それが芭蕉に、あるいは先生の教えに従うことであると考えたのである。

  啄木忌われに新聞少年期  海 紅


# by bashomeeting | 2024-05-20 14:06 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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