漂流と漂泊

 貞享四年(一六八七)の冬に、芭蕉は流謫の身にあった門人杜国を伊良湖岬に訪ねて、
       鷹一つ見付てうれしいらご崎   (笈の小文)
と喜んだ。また、明治三十一年(一八九八)の夏には柳田国男が伊良湖に滞在し、そこで得た椰子の実の話を島崎藤村に語って、国民歌謡「椰子の実」(藤村『落梅集』)が生まれた。
 だが、鷹と椰子の実ではものが違う。いかに遠き島から流れ着くとはいえ、椰子の実が海に漂うていても漂泊とは言えず、せいぜい漂流であろうか。漂泊とは精神のことなのである。
# by bashomeeting | 2006-10-23 14:35 | Comments(2)

月の仏となり給へ

 名月の夜にJ君が亡くなって、ふた七日が過ぎた。三十九歳であった。東京下町の人の好さとは、こういう優しさをいうかと思える男で、何年御無沙汰しても、再会すれば私のゼミにいたころのままの彼であった。好きな女がいると言いながら、何年も一緒にならないので心配したが、ついには一途を通して結ばれ、細君はいま二人目の子を宿していると聞いた。去る五月の芭蕉会議発足の集いに誘ったところ、私のわがままを聞いて、細君と息子さんを同伴してくれた。それが最後であった。無理に誘っておいてよかった。通夜の月は美しく、彼の友人らと思い出の街にくりだし、みんなでたくさん泣いた。

月の友月の仏となり給へ    海紅
# by bashomeeting | 2006-10-22 16:28 | Comments(1)

書きかえられた本意

 安居(あんご)は、あえて暑く辛い時期を選んで行う修行であると学び、そう信じてきた。夏籠(げごもり)も夏解(げだち)という文字も、そのような艱難辛苦をすすんで選び取る景色に見えていた。だが本来は雨季の意で、インドにおける雨季の暑さや災難、猛獣などの危害を避けて、修行に専念することを目的とするものであることを知った。恥ずかしながら、最近のことである。本意がまったく逆ではないか、と少し腹立たしい気がした。無知の自分にではなく、こうした受け容れ方をする権威に対してである。
# by bashomeeting | 2006-10-10 09:58 | Comments(4)
 片山由美子さんの評論集『俳句を読むということ』(角川書店)が届く。巻頭に「現代俳句における切れの認識」がある。読み始めたい衝動を抑えて、まず自分の思考を整理しておかねばならぬ。

 詩歌は音楽である。音楽は、常にそのすべてが備わっているとは言えまいが、旋律(メロディー)・和音(ハーモニー)・拍子(リズム)の三要素から成っている。俳句も韻文、つまり詩であるから音楽である。よって、この三要素と無関係には成立し得ない。
 俳句の要件として、よく「切れ」が取り沙汰される。これは詠嘆の在処を示すため、読み手(聞き手)を立ち止まらせるための装置で、文の構成法としては省略・中止・倒置に属する。それが音楽の三要素のどこかを刺激し、抒情に奉仕する。「切字」は「切れ」の具体例のひとつで、すべてではない。「切れ」は俳句に限らず、韻文ジャンル全体に不可欠な要件である。散文と区別される基本条件と言ってよい。
# by bashomeeting | 2006-10-10 07:45 | Comments(0)
 今年の地方スクーリングは平泉公民館を教室にして、6月30日(金)から7月2日(日)にかけて実施。元禄二年の芭蕉が平泉を訪ねた時期と殆んど一致するという幸運にめぐまれた。『おくのほそ道』を読んでは、ゆかりの土地を訪問するという贅沢な三日間で、昨年同様に卒業生も駆けつけてくれた。
 折よく毛越寺はあやめ祭りで、平安の昔をしのぶ延年の舞には全国から人々が集まっていた。終日の五月雨も長く記憶に残るだろう。講義の締めくくりは、例年通り連句の試み、表六句を記録にとどめよう。

人の手で開ける列車や風薫る     宇田川良子
  あやめ祭りをしつらへて待つ    小林 吉郎
寺廂涼しき月を押し上げて        谷地 海紅
  なにぶらさげて帰る里の子     西村 通子
花すすき祖母にわたせば微笑める  原田 富江
  ちちろ鈴虫ちちろ鈴虫          執 筆

 もう一日ひとり旅を愉しむと言う喜美子さんと別れて帰途につく。新幹線では、車両を同じくする数人で一句会。喜美子さんは不在投句。

日常の旅へとかはる青田かな   正 浩
駅前の鉄風鈴に芭蕉の句      喜 美
木下闇芭蕉の句碑の読み難し   由貴子
空広し無量光院跡青田       海 紅
洗ひ髪草の匂ひの夜風かな    文 子
車中より青田の見ゆるわつぱ飯  正 浩
   延年の舞 三句
童子舞ふ鈴音やさし五月雨    嘉 子
五月雨と童子の床を踏む音と   喜美子
麻衣童子は風を入れて舞ふ    文 子
# by bashomeeting | 2006-10-02 14:20 | Comments(0)
 飯坂学習センターを教室にして、平成17年9月17日から三日間行われた『おくのほそ道』スクーリングで、学生と試みた連句(表六句)がひょっこり出てきた。海紅のさかしらで、多少手が入っているのはいつも通り。


医王寺にて佐藤継信・忠信
二人の妻の人形を拝す

鎧着て孝行の嫁さはやかに   雅 子
 文治二年の露のみちのく    海 紅
欠けてゐる盃に月たゆたひて    透
 そば屋の暖簾出づる藪医者  佳 美
しんしんとこんこんと雪道続く    海 紅
  きつね親子に届く手袋      道 子
# by bashomeeting | 2006-09-30 09:31 | Comments(0)

私はどこにいるのか

  ドラマにしろニュースにしろ、TVに映し出される映像を見ていて、これは私の目が見ているわけではないと思って、カメラマンの目がみているのだと思って、電源を切ってしまうことがある。切ることはしないまでも、そういう神経を忘れたくない。そんなふうに暮らしていると、私と同じように生きているひとりに出逢った。昭和57年のことゆえ、今は昔と言うべきか。直接お目にかかったわけではない。正確にはその人の詩に出逢ったのだ。作者の名は井上繁利さん、当時十三歳。詩集の名は「新選対訳『どろんこのうた』」(北星堂書店 昭和57・1)、編者のひとり郡山直先生とその御友人本田徹夫先生と御縁があって一冊いただいたのである。その簡明さに驚嘆した郡山先生の英訳も書きとどめておこう。

かがみ

ぼくは かがみを みたらいけん
ぼくは かがみが こわいけん
みんのです
ぼくのかおが かがみに うつったら
ふたりが おるけん
こわいです


The Mirror

I don't look into the mirror.
I am afraid of it.
So I don't look into it.
When my face is reflected.
In the mirror, there are two me's,
So Iam afraid of it.
# by bashomeeting | 2006-09-29 11:14 | Comments(1)

懐疑という心

「国際俳句シンポジウム『不易流行』」の記録集を輪読するにあたり、谷地はまず不易流行とは幽霊のような言葉であることを前置きした。理念としての「不易」と、情況としての「流行」という言葉は、古来それぞれ独立して存在した。その二つをひとつの概念として用いたのは、おそらく芭蕉が最初であろう。だが、芭蕉自身が書き記した資料は堀切発言にある通り、「只今天地俳諧にして万代不易」(元禄3・12・23付去来宛書簡)しかなく、そのほかは聞書か、その聞書を敷衍したものであるからだ。しかもその聞書は「千歳不易」「天地固有の俳諧」「天地流行の俳諧」「風俗流行の俳諧」「一時流行」「世上の流行」等、その表現が微妙に異なっている。不易流行を論じる私どもはまずこれらの資料と向き合い、そのつじつまの合わない点を考え抜かねばならない。この愚直ともみえる手続きを省いて納得すれば、事の次第にうとい幽霊の末裔になりさがるしかない。憶えることに性急である必要はない。懐疑という心を忘れないことだ。
# by bashomeeting | 2006-09-28 11:01 | Comments(0)

不易流行は近代の原点

  「論文を読む会」で正岡子規国際賞事業「国際俳句シンポジウム『不易流行』」の記録集(平成16年3月 愛媛県文化振興財団)を読んだ。川本皓嗣氏をモデレーターに、パネリストとして岩岡中正・夏石番矢・堀切実各氏を迎えたもの。作品に触れることのない議論で難解であったが、私に比較的馴染みやすかった岩岡氏の意見の一部を書きとめて備忘とする。なお、芭蕉会議としての集約は別に機会を設けることになる。

 〈「近代」とは人間による作為、つまり一切を自分の小さな自我で作っていくやりかた〉を学んだ時代である。「現代」とはその〈近代の行き詰まり〉の時代で、「老いてきた近代」といえる。つまり〈一切が自己中心的になり、物事を見るのにすべてが分析的になり散文的になり、詩が失われてしまった時代〉で、〈人と人、人間と自然との関係、挙句の果てには自我と身体との関係までも崩壊してしまい、バラバラになった世界〉である。〈真の知性が枯渇し、貧困になった時代〉といってもよい。俳句に関して言えば、〈非常に実感から遠ざかった言語遊戲〉になってしまった。
  もとより詩は「真の知性」である。つまり、詩には内発力・生成力があり、〈一切を総合する力〉が備わっている。それは〈相異なるものから、それを超えた全く異質な高次元のものを作り出す〉想像力(imagination)によって生まれるのであり、〈言葉を適当に組み合わせて新奇なものをつくりあげる〉空想(fancy)の産物ではない。
 ではこの「老いてきた近代」をいかにして超えるか。それは「近代」の原点に帰ることである。もともと「近代」がめざしていた「生きた自我」、つまり芭蕉のような「開かれた自我」を完成させるために、もういちどモダンの原点に帰ることである。創造のエネルギー(流行)と伝統(不易)との相互の往復運動を通して、〈生き生きとした感動をもって、新しい見方や価値観の中に身を置いて、★自己生産論(オートポイエティック)に生きていくという〉ところから新しい伝統が創出されるであろう。
 
  〔谷地注〕★「自己生産論」は「自己生産的」の誤植か。とすれば、その意味するところは、向上心を持って主体的に生きて、その結果として生まれてくる感動を形象化する、という脈絡になるであろう。
# by bashomeeting | 2006-09-28 05:36 | Comments(0)

残るもの

生きた歴史や時間が残るわけではない。
 「情」が残るのである。
# by bashomeeting | 2006-09-23 01:32 | Comments(0)
 「海紅句抄」の掲出句に、書き込みをしてくださった人たちに答える。
 東洋大学俳文学研究会の一泊研修で木曽を旅したのは平成十一年九月十日と十一日の二日間である。木曽馬籠、妻籠、奈良井宿、木曽福島、薮原宿、寝覚めの床などをめぐる。馬籠の永昌寺で島崎藤村の詩碑に遭遇した。この句は、木曽の秋深き山河と藤村の詩とがわたくしの身体を通り抜けるときに出てきた、溜息のようなものであった。

    母を葬るの歌  島崎藤村

   きみがはかばに きゞくあり
   きみがはかばに さかきあり
   くさはにつゆは  しげくして
   おもからずやは そのしるし
   いつかねむりを さめいでて
   いつかへりこん わがはゝよ
# by bashomeeting | 2006-09-22 20:32 | Comments(0)

ふたりの俳諧師

  ― 海紅先生が出ているよ。
  学会誌の出張校正の部屋で、K先生が悪戯っぽく笑いながら別所真紀子著『古松新濤』(都心連句会・湘南吟社)という書を私に示した。「昭和の俳諧師 清水瓢左」と副題があるので、「古松新濤」という書名にこめる思いがわかった。松濤軒瓢左翁の一代記である。
 清水瓢左先生は昭和六十年に九十歳で亡くなった連句人である。俳諧を松濤軒柳斎・根津芦丈に学び、松濤軒を継いで三世・芦丈の抱虚庵を継いで六世を名のった。東明雅先生は名刺に「俳諧師」とだけ肩書きしていたが、瓢左翁も俳諧師の一語にふさわしい生涯を送った。
 その最晩年に、私は瓢左翁の連句指導を受けて、軒号を与えられた。江戸俳諧の命脈を受け継ぐかけがえのない人に学んでおこうという、村松紅花先生のすすめに従ったもので、池田紅魚君と一緒であった。『連句辞典』(東京堂出版)のお手伝いをした縁で、東明雅先生の連句の座にも何度か連なったが、この二人の俳諧師は似ているようで、似ていない。瓢左翁は江戸俳諧師の切絵のような人で、明雅先生は切絵師のような方であった。
# by bashomeeting | 2006-09-21 10:07 | Comments(0)

日常の中の非日常

 芭蕉は〈非日常を日常として生きた〉と説かれることがある。しかし、日常の中に居続けないかぎり、非日常を日常とし続けることなどできるものか。非日常とは日常の中にあるのだ。
# by bashomeeting | 2006-09-18 15:43 | Comments(0)

非日常を日常とする

  「非日常を日常とする」
  むずかしい言葉だ。しかし、こういうふうに抽象化しない限り、言葉はエネルギーを持たない。生きる力にならない。生きる力にならぬなら、出家でなく、文学を選んだ意味がない。
# by bashomeeting | 2006-09-18 15:24 | Comments(0)

漂泊と信仰

 漂泊と信仰とは、時々わたくしの中で一緒になる。それは、わたくしにとっての信仰が神聖なものへの畏怖でなく、心の解放という意味を出ないからだろう。

 人生も半ばを過ぎて、残された時間を思うころになると、人は、家を守り、子供に後を託し、持てるものと棄てるものを選り分けて、整理する方向にむけてしっかりとするものだ。ところが芭蕉の場合は、持てるものを守るのでなく、壊してゆくカタチで人生をしっかりさせようとするわけ。具体的には旅がそれ、漂泊がそれで、ちょっとみには放埒無頼にみえる。しかし、それはおそらく心を解放するためには最良の道で、耳目を通して世界を把握し、瞬時にして数十年の過去を体感する道ではなかったか。むろん、わたくしどもが、それをそのまま真似することはないし、できもしないのであるが…。
# by bashomeeting | 2006-09-18 09:27 | Comments(0)

仇討ちという大義

 近松の『世継曽我』を読む。曽我物は講談で伊賀越え(荒木又右衛門)、忠臣蔵とともに
三大仇討ちとして知られる。講談・仇討ち、古い古い、過去のものと思いきや、しみじみとこみ上げるものあり。かりに法律という重石がなければと、仇同然に思い詰めるひとりやふたりは、今の世とて誰にもあること疑いなし。地球規模で起き続ける血の争いも、いかがわしい大義なるものを括弧の外に括り出せば、単なる仇討ちとも見える。〈人は歴史に学ばない〉とは、加藤周一氏がどこかに書いて以後、私の頭を離れないことばのひとつ。人の心に古典も近代もあるものか。
# by bashomeeting | 2006-09-16 00:29 | Comments(0)
 銚子の文化講演会のあと、聴講者にまじっていた卒業生から便りをいただいたり、主催の教育委員会のSさんから、同委員会発行の冊子『銚子と文学者とのふれ合い』を送られて、銚子に文学碑の多いことに驚いたりしている。すべて講演の余韻である。

 それにしても、人はなぜ歌碑・句碑や詩碑の類を遺すのであろうか。直感的なことながら、この様式は「壁に題す」(壁に詩文を書き記す)という漢詩の歴史に端を発するものではないか、以前からこう考えてきた。

 「壁に題す」という成句は小学校六年生の時に教えられた。ボクのふるさとに限らないであろうが、ベビー・ブーム(なんというイヤなことばであろう)と呼ばれた世代の小学校は、一クラス六十名ほどに溢れかえり、登校時刻をずらして二部に分けたり、科目ごとに教室を移動したり、いろいろ工夫しても従来の教室数では間に合わず、新しい小学校ができて、住居の近いボクは五年生の五月にその新しい小学校に移された。そこの最初の校長先生が紺谷秀次という人で、週に一時間だけ教科書のない授業をしに教室に現れた。
 ― 意味は考えなくてもよい。大きくなればわかるから…。
 そう言って、漢詩を黒板に書き、音読させた。そこで菅原道真や頼山陽の名を覚えた。「壁に題す」は村上文三の詩題であった。

    壁に題す

    男児志を立てて、郷関を出づ。
    学若し成る無くんば、死すとも還らず。
    骨を埋む、豈惟墳墓の地のみならんや。
    人間到る処青山有り。

 内容にむずかしいところはなく、なんとなく納得して大人になったが、高校教師のころに、同僚から「青山」とは〈死に場所〉であり、〈墓場〉のことであると聞かされて驚いた。
 こういう思いこみがあるからであろうが、文学碑類を悲壮な決意がこめられたものとして見てしまう。同じ理由で、見るのがイヤになることもある。その微妙な気分を整理したくて、数年前から『諸国翁墳記』を調べ続けている。

 『おくのほそ道』の序が〈面八句を庵の柱に懸置〉(曽良本)と結ばれていることは御承知の通り。仏頂が芭蕉に〈「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と松の炭して岩に書付侍り〉(同)と語ったという雲巌寺の一節も周知の通り。これもボクのいう漢詩の歴史までさかのぼる様式であると思いたいが、平成十年に宮脇真彦さんが研究発表で日本古典文学から用例をたくさんあげているので、論文として読ませてもらうことを心待ちにしている。

  もう、とうに亡くなっているはずの紺谷先生に会いたくなった。
  ― おまえに運といえるようなものはなかったが、いつも先生には恵まれていたよ。
  これはボクに対する母のくちぐせであったが、その母も今はもういない。

    ともすればかなしびごとをつたへきて五月雨の夜のさみだれの音  ケサイ
    母の死を告ぐる五月雨とも知らず  海紅
# by bashomeeting | 2006-09-08 11:09 | Comments(0)
 昨日、講演(文化講演会)で銚子に出かけた。新涼というべき日が、ひとり旅を豊かにしてくれた。「旅と俳諧―その美しい交響詩―」という題で九十分話した(銚子市市民センター 大ホール)。旅とは住んでいる土地を離れて一時他の土地に行って戻ることではなく、〈逢って別れること〉という、私の『おくのほそ道』理解を、俳諧(連句)という文芸の本質と重ねたもの。

 講演後は、教育委員会を通して、数日前に打診のあった鷗俳句会の方々とお目にかかって懇談、句碑散歩ののち会食をしてお別れした。何度も出かけている町であったが、地元の先達のある散策はかつてない充実したものとなった。俳句会のみなさんの、旧識の如き優しい心配りに頭が下がった。以下にその見学の一部を紹介する。

 浜屋ホテル(あしか島海岸)の前庭の句碑「佇みて瞑りて待つ初日影 唯男」を見る。作者の永島唯男氏は鷗俳句会の指導者で、俳誌『天為』同人。連句も画も玄人跣足の多彩な人である。

 最近、犬吠埼灯台下の君ヶ浜に、『天為』主宰の有馬朗人句碑「鳥白し春あけぼのゝ君ヶ浜 朗人」が建ち、道沿いにある句碑「犬吠の今宵の朧待つとせん 虚子」に対す。

 女将の高橋鷹子さんが俳人という暁雞館(犬吠埼)を訪ねる。永島さんらが巻いた「暁雞の」半歌仙の額を見るためである。それはロビーの壁に掲げてあった。平成十七年一月十一日に巻いたもの。第三までを紹介しよう。「董王」は永島氏の別号。
   暁雞の西明浦の初日かな  永島 董王
    掬へば甘き海士の若水   本屋 良子
   醤油蔵四百年も続きゐて   高橋  賢
 
     此台の清風/たゝちニ心涼しく/
     西方仏土もかく/あらんと
  ほとゝきす爰をさること遠からす 一茶坊〔書判〕
  これは浄国寺(春日町)に建つ一茶句碑。寺が所蔵する芳墨帖の真筆を模刻したもの。一茶は文化十四年六月一日、滞在先の主人である大里桂丸(豪商行方屋。大里庄次郎。浄国寺檀家)、と五味李峰(銚子住)と浄国寺望西台に遊んだ(矢羽勝幸『一茶大事典』大修館書店)。その際の揮毫。「平成十七年乙酉年七月吉日」建碑。碑陰に有馬朗人・本屋良子(獅子門 一紅庵)等、発起人である永島氏を支援した人々の名あり。〈爰をさること遠からず〉は『観音経』の一節という話もある。『華厳経』であったかもしれない。仄聞ゆえ、確かめる必要あり。
 先掲の桂丸が、野崎小平次(未詳)と共に建てた芭蕉句碑が同じ境内にある。句は「枯枝にからすのとまりけり秋の暮 はせを」(判読)。碑面に「あきの夕誰が身のうへぞ鐘が鳴る 桂丸」(未考)の句を添える。弘化二年建碑の由(未考)。『諸国翁墳記』に登載されるや否や考証の必要あり。

 地球展望館(愛宕山)で「鷗俳画展」見学。私の訪銚を知って、会期を延ばしてくれた由。心に残った句は以下の通り。
   頬刺の一味ちがふ天日干  加瀬 晴子
   春寒や仔牛小さき膝を折り  半田 穂波
   大店に嫁して七年初幟    作田 櫻子
   県民の森より聞こゆ雨蛙   一谷 源治
   香水を控へて料理運びけり  高橋 鷹子
   釣宿の女将となりて明易し  飯島 藍子
   噴水の見ゆる二階の喫茶店 高橋 綾乃
   宿題の早く終りしソーダ水  加瀬  緑
   枯菊を束ねし庭の広さかな  加瀬 絹代
# by bashomeeting | 2006-09-04 13:01 | Comments(0)
 三木慰子さんが労作『「野ざらし紀行」古註集成』(和泉書院)を完成された。土芳著『三冊子』(元禄十五成)から錦江著『泊船集解説』(安政六成)まで、二十九種の近世期の注釈書が一覧されたのである。どこかで輪読の会を始められないか。
# by bashomeeting | 2006-09-02 16:41 | Comments(0)
 江東区芭蕉記念館から、翻刻『「俳諧 海内人名録」Ⅱ』(年度報告書)を贈られた。昨年の第Ⅰ部と合わせて、嘉永年間の一千名に及ぶ俳諧人名録が活字で読めることになった。各俳人の一句がそれぞれ掲出されているので、句集の性格も持っている。その詳細は省くが、西馬の跋文は、当時の俳人が、俳諧の目的を、出離遁世の枠組みでとらえている一資料であるから、核心部分を意訳して書きとめおく。

 西馬は、西行が出家の心を詠んだ歌「同じ心を/世を厭ふ名をだにもさは留め置きて数ならぬ身の思ひ出にせん」(西行・山家集・雑)を引きながら、〈この西行歌に見える、名を遺そうという気持ちは、この世の思い出とするという意味で、最初の仏道修行であろう。この世の思い出がなければ、出家後の修行も却って怠慢になり、仏道への専心がむずかしい。ところで、この『俳諧 海内人名録』は国内の俳人一千名以上の通称までも記してあるが、その意図は先掲の西行歌に同じく、俳諧への専念を出離修行の最初の思い出として、長く後世に残そうとするものであろう…〉と書いている。
# by bashomeeting | 2006-09-02 16:38 | Comments(0)

手帳の国、職人の国

 九月一日である。手帳で確かめたのでまちがいない。雨天。今年は今日で二百四十四日が過ぎ去り、百二十一日を残すばかり。立春からかぞえれば二百十日で台風の季節。陰暦では閏七月九日、つまりまだ初秋である。むかしから風を祭り、農作物を荒らす風を鎮める季節で、確かに青松虫の声も夜ごとに増えている。だが、こんなふうに復誦しても、規則正しい日常をおくることはむずかしい。

 ひとつの仕事に取り掛かると、それが仕上がるまでは仕事場を出られない。今日が何日であるかということまでは気がまわらない。それは出勤の拘束が少ない夏季に多く、時に失敗もする。会議は言うに及ばず、ある人の結婚披露宴をすっぽかしたこともある。その披露宴はボクの記憶より一日早く行われたのだ。以来、その人はボクに口を利いてくれない。記憶より手帳を信じなければいけない。わかっている。だが、仕事のさなかはその手帳までが時々行方不明になるのだ。数日前も、二つの約束、ある記念館訪問と雑誌の出張校正を忘れた。いつになく夏休みの宿題に必死な息子が不審で、尋ねると、明日と思いこんでいた約束の日は今日で、すでに午後になっていた。後の祭りであった。

 自分のために仕事をする。それが結果的に人のためになってゆく。かつて、この国はそんな職人仕事を矜りにする国であった。今は人のために仕事をせよ、それは必ず自分のためになるからとすすめられる時代。そこで粗忽をしないために、職人の国と手帳の国を行ったり来たり、しかしそれではまとまったよい仕事ができないのである。オーナーは要らない。手帳の国で、職人の国にいるボクを見張るアシスタントがほしいと、叶わぬ夢を見たりした。
# by bashomeeting | 2006-09-01 10:11 | Comments(0)

清見寺の芭蕉句碑検証

快一:東海道を歩いて来たんだって。
海紅:卒業生に誘われてね。由比の「東海道広重美術館」がすばらしかった。ああいう本物を見て戻ると、誰がこんな東京にしちまったんだ、江戸の景観を返せって、告発でもしたくなる。
快一:やめなヨ。目をつむればすむことだ。
海紅:興津の清見寺にも立ち寄った。名勝という庭園の石橋が芭蕉句碑だというのでね。
快一:どんな句なの。
海紅:森川昭著『東海道五十三次ハンドブック』に「東西あはれさひとつ秋の風」とあり、『東海道名所図会』では「清見寺にて/西ひがしあはれさ同じ秋の風 はせを」だ。「東西」「西東」、「ひとつ」「同じ」の違いがある。寺にある句碑の写真を見ると、名所図会の形が正しいようにも見える。
快一:碑文は読まなかったの。
海紅:今は石橋の裏面になっていて、読もうにも読めないんだ。さっきあげた森川先生の本によれば〈このさびしい句のために宿場がさびれたとて、裏返して橋にした〉という言い伝えがあるらしい。
快一:すごいね、芭蕉の句には町を寂れさせる力があったというわけだ。
海紅:そうかもしれないが、実は市販の芭蕉句集類を見ても、意味がよくわからない。
快一:無理ないよ。この句は去来の『伊勢紀行』(貞享3)に与えた、三百字あまりの前書と一体の句文であって、十七音で成立している発句じゃない。芭蕉全集類に前書なしで出すこと自体が不見識なんだ。その結果、解釈を誤る。
海紅:どんな前書なの。
快一:〈言葉、心ともに拙い人の多い中で、去来という人は其角(芭蕉の高弟)と交流を深めて風雅の道をきわめた。そして、このたび妹を連れて秋風の京都白川口を発って、伊勢参宮を果たすまでの道の記を『伊勢紀行』としてまとめ、深川の芭蕉庵に送ってきた。私は三度読んで、その風雅の心のゆたかなことを確信した〉といった内容だよ。句意はこの前書を踏まえるので、〈私とあなたは江戸(東)と上方(西)とに分かれて暮らしているが、秋風にあわれを感じるという風雅の心で一つに繋っているのです〉というところだろうね。去来を門弟として認知する内容と見てまちがいない。
海紅:じゃあ『東海道名所図会』にある、清見寺で詠まれたという前書は誤りか。
快一:そうね。『伊勢紀行』に従って、句と文章とでひとつの作品と認定して読まねばいけない。つまり句の成案は「東にしあはれさひとつ秋の風」。もちろん、この句によって宿場が寂れた、というのも言い掛かりの類だね。残念ながら、芭蕉のこの句にそんな霊力はない。誤伝と知って困った挙句、附会された話かもしれない。伝承とはおもしろいね。
海紅:その句文の全体は、どこで読めるのだろうか。
快一:『去来先生全集』(落柿舎保存会、昭和57)がいい。
# by bashomeeting | 2006-08-28 22:50 | Comments(0)
 帰省中にたくさん蜻蛉を見たので、帰宅後、季節ごとにE-mailに刷り込んでいる句を「とんぼうの宙に残りて覚束な」に差し替えたところ、I君が蜻蛉の竹民芸品を贈ってくれた。〈…メール末尾の句を読んだら、これを見せたくなったので〉とあった。釣り合い人形、つまり弥次郎兵衛の一種で、木の枝にとまった二匹が、机上に届くわずかな秋風にも揺れて見せる。〈これを見ていると、重心とか、バランスの大切さを思う〉ともあった。

 三月に卒業された根本文子さんが、卒業論文を自費製本されて、一冊贈ってくださった。『芭蕉発句研究―花の季題をめぐって―』である。芭蕉の句の新しさを、どこに見届けるべきかという問題を、縦題の考察によって明らかにしたもの。書き添えられた〈母に見せ、父にも供え、弟と妹に渡したい〉の一言が、この人の向学心をよくあらわしている。

   せむとして成し得し今日のよろこびにわが勤しみは酬はれにけり(空穂・冬木原)

 今日と明日は卒業生と箱根から由比・興津あたりに遊ぶ。
# by bashomeeting | 2006-08-26 06:05 | Comments(0)

新しき故郷

 郷里には、移動日を含めて四日滞在して、二十日に帰宅した。

 北海道とは思えぬほどの残暑であった。到着した日の夜は、このたび入会を許された「芦別ペンクラブ」の例会に出席、父も母も他界して、郷里との縁が薄れゆくことをさびしく感じていたが、ここにひとつの絆ができた。新しき故郷であった。翌日からは、姉や妹一族との再会を果たし、母の納骨を済ませ、子供を水泳につれて行ったり、私の卒業した小学校のグランドで息子や娘とキャッチボールなどもした。また、生家の草取りもすこしした。

 郷里を離れる日は「星の降る里百年記念館」に立ち寄って、「特別展 歌人の書棚〈西村一平コレクション展〉」を見た。この企画の一切を担う学芸員の長谷山隆博氏に誘われていたからだ。前庭の芝刈りをしていた長谷山氏に〈学芸員さんは草取りもするのですか…〉と話しかけると、〈外は涼しいですから…〉と笑いながら迎えてくれた。氏は「芦別ペンクラブ」の中心人物で、入会に際してはあれこれ懇情を賜った。

 西村一平とは、私が毎日のように立ち読みに通っていた、六花書房という書店の主である。立ち読みを咎められたことはない。いつも入口左のレジで、ものしずかに何かを読んでいる人であった。夢に三島由紀夫さんが現れて、赤シャツという店でコーヒーを飲み、一緒に出かけた書店でもある。六花とは雪の異称。その六花書房も赤シャツも今はない。

 一平氏が与謝野寛・晶子に師事する明星派の歌人で、寛に〈いにしへの啄木、今の一平〉と愛されていたことは聞いていた。しかし、私にはまれに書物の代金を払う書店の主でしかなく、むろん文学の話などしたことはない。当時の私は貧しい家具建具製作所の息子で、立ち読みの常習者にすぎなかった。長谷山氏は葛西善蔵資料を含む常設展を含め、最後までお付き合いくださった。私はこの人との縁に胸を熱くして郷里を後にした。

こゝろなく寄りくる波とおもはれずくづるゝ時のひたむきを見よ 一平
# by bashomeeting | 2006-08-24 07:58 | Comments(0)

旅立ち


 濱田惟代さんから、宗左近先生追慕の句が朝日俳壇に入選したという知らせが入った。
   宗先生母御に会ふや星月夜
 八月の今にふさわしい調べだ。

 安居正浩さんから、江田浩司さんの歌集『ピュシス ピュシス』が、やはり朝日新聞の風信欄に紹介されているという一報もあり。旅の荷物にこれを加えることにした。たまたま開いた頁から一首、
   書かれざる一行に向け旅立てり 柩を叩き止まざる驟雨

 四時、これより出発。美しい星が出ている。

 鳩の会の会報作成等、帰宅後の仕事に残し置く。
# by bashomeeting | 2006-08-15 04:53 | Comments(0)

前書論の指針

 時間はいつも不足している。夏期休暇に入ったはずなのだが、知らない人々の書いた二百数十編の作文を読んだり、溜まっているレポートの添削や、雑誌の編集に関わったりしているうちに、十日ほどが過ぎてしまった。それらのすべては、私の自由を生贄にしてよいほどの仕事ではない。つまり私は私らしい十日を生きていない、なすべきことをなにもしていない…。明後日には船で北海道にわたり、母の納骨をするのだが、墓にはまずそれを詫びねばなるまい。そして、自分自身の主人であり続けるための力を得て帰ってくること。

 八月五日の清澄庭園はよかった。江東区芭蕉記念館を会場に、仲間の句会があって出かけたのだが、立秋を目前に、夜は秋の気配を強めているのに、日中は閉口するほどの炎天で、常識では他出を憚かるところだろうが、そこは脱日常を本意とする吟行句会ゆえ、日盛りに抱かれる覚悟、その甲斐あって、つくばいに喉を潤す雀らに親しみ、鴉と緑蔭を分け合い、浴衣姿の乙女らにしみじみとした時をすごした。

 この季節は亡き人を思い起こし、戦争の惨状を記憶し直す時間でもあって、句会では史実を主題とする佳句も少なくなかった。だが、歴史的な事柄を過不足なく十七音に詠いあげることは難しく、前書をつけることの是非が話題になった。俳句は五・七・五音で自立した一篇の詩でなければならぬ、という信仰が近代以降にあって、意見がわかれたのである。その際の議論をさらに深める機会がくることを期待して、昨夜一気に七枚ほどの原稿「前書論の指針」を書いて、通信教育部の機関誌に送った。句会の場で、問題提起してくれたKさんに感謝したい。
# by bashomeeting | 2006-08-13 15:57 | Comments(0)
 津軽海峡を越えて母を見舞うたびに、私は心の中で何度も別れを告げた。弟は病床の母の耳もとに〈…今日は顔色がいいよ〉とささやくのが常であったが、実際はよくなかった。母は天命の限界を耐えており、弟は息子のやさしさの限りを尽くしていた。致し方のないことであった。

 M氏が研究室を訪ねてきたのはそのころである。彼は〈『えんぴつで奥の細道』という売れ筋を真似て、『野ざらし紀行』を出したいのです〉と率直だった。率直な人は恐いが、嫌いではない。だが私は〈柳の下にいつも泥鰌がいるとは限らない…。パクリ本の手伝いはしないよ〉と断った。彼はひるまず、〈『野ざらし紀行』には『おくのほそ道』ほどの完成度はないが、芭蕉の生涯のすべてがひそんでいる。生い立ちも、人生の経過も、文芸的な到達点さえもそこにはあり、初めて芭蕉を学ぶのに、これほどふさわしい作品はない〉とその意義を説いた。

 M氏の言う通りであった。彼は今まで日本文学に縁がなかったと言うが、この企画の実現にむけて学習していることにうたれた。それで、これが書写本にとどまらず、大学生の芭蕉入門ゼミのテキストとして耐え得る工夫をすることを条件に、監修を引き受けた。すなわち『野ざらし紀行』の詳細解説をほどこし、M氏の質問に答える形で芭蕉の生涯・俳諧文芸の魅力・近世という時代についてコラムを設け、映発の美学である俳諧を愉しむ目的で写真を配してもらったのである。今まで文学関連の出版を殆んど手がけていない出版社、という点にも好感を持った。

 母の死は、その原稿を書いているさなかの哀しみで、結果的に著者校正の時間を失った。この点を詫びつつ、下記の通り正誤表を示しておきたい。ちなみに、この本の命取りになるような誤記はない。

                ■正誤表

P 1 「はじめに」         L1 ×江戸深川→○江東深川
P 4 「目次の八日目」     L1 ×常磐塚→○常盤塚
P35 「芭蕉世界を愉しむ」 下L9 ×深いことを→○深いことは
P37 「語釈:斧斤の罪」     L2 ×斧斤ニ夭セラレズ→○斤斧ニ夭セラレズ
P38 「詳細解説」        L28 ×竹の内(当麻町)→○竹の内(葛城市)

P54 「見出し」         L1 ×常磐塚→○常盤塚
P76 「語釈:西岸寺…」   L3 ×宝誉め上人→○宝誉上人
P81 「現代語訳」     L7 ×大顛→○大巓
P82 「語釈:水口」     L2 ×水口市→○甲賀市
P82 「語釈:蛭が小島」   L1 ×静岡県田方郡韮山町→○静岡県伊豆の国市韮山町
P83 「語釈:円覚寺の…」   L1 ×大顛→○大巓
P87 「芭蕉世界を愉しむ」 上L7 ×『俗猿蓑』→○『続猿蓑』
P92 「あとがき」 L20 ×俳諧と文芸→○俳諧という文芸
# by bashomeeting | 2006-08-10 12:06 | Comments(0)

やさしい無関心

 ブログを始めると約束して実行に移せず、二ヶ月が過ぎた。
 六月半ばに母の野辺送りを済ませた私が、いま日記まがいのことに手を染めれば、カミユの『異邦人』のムルソーのようにボロボロになってしまう気がして、混沌としていたからだ。
 この小説は〈きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった〉と始まる。
 引用は窪田啓作訳による新潮社の世界文学全集39『異邦人・ペスト・転落』(昭和42)による。この全五十冊からなる全集には、むかし企業に就職して、自分のお金で本が買える喜びを味わった懐しい思い出がある。退職して津軽海峡を越えるときに、『魔の山』『ジャン・クリストフ』『狭き門』などと共に運んだ。
 ところで、主人公ムルソーは〈人間は誰もが死刑の宣告を受けている存在〉であるとし、何事にも〈どっちでもいい〉〈ボクには関係ない〉と考えがちな男で、社会性や宗教的倫理観の外側にあって、人生に取り立てて生きる意味を見いださない男として読者の前に投げ出され、〈太陽が眩しかったから…〉という曖昧模糊とした理由で殺人を犯して裁かれる。読後、不条理すなわち〈人間はなぜ死へ向って歩まねばならないのか〉という問題を突きつけられた本であった。説明のつかない将来を抱える思春期の只中にあって、〈ムルソーとは自分のことである〉と思った青年は少なくなかったと思う。
 私もひどく落ち込んだ末に、この世にすでに生きている〈私〉は、かつて〈ある誰か〉にとっては意味ある存在であったに違いないこと。それ以上の生きる意味は、〈私〉が主体的に創出すべきものであること。社会は〈無関心〉で、他人を哀しむようにはできていないが、それは憎悪に満ちたものでなく〈やさしい無関心〉であること等を手掛かりにして、『異邦人』からの脱出をはかった。それは芥川や太宰を遠ざけるようにしたころと一致する。
 母の死とは、新しいことを始めるにふさわしい時機であるかもしれない。
 遠い思考回路を整理しつつ、こんなふうに思った。
# by bashomeeting | 2006-08-07 16:06 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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