2015年 10月 23日
坐骨神経痛観察1◆星に祈りを
牛の目に星の光りて末枯るる 海 紅
▶▶坐骨か、椎間板か、はたまた恥骨なのか、医者の世話になって三ヶ月を経過した今も認識できていないのだが、症状はどうも坐骨神経痛のようだ。それを遠くで心配してくれる人に、心配をかけないように、客観的かつ簡略な記録を試みようかと思う。
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2015年 09月 26日
戦争の放棄Ⅴ◆反戦歌の誕生
死んだ男の残したものは
作詞 谷川俊太郎
作曲 武満 徹
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
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2015年 09月 26日
戦争の放棄Ⅳ◆『戦争と平和を見つめる絵本わたしの「やめて」』朝日新聞出版
▶▶転載「天声人語」(2015年9月15日)
平仮名しかわからない小さな子にも読んでほしい。埼玉県に住む予備校講師の山岡信幸さん(51)はそう思い、易しい言葉で「こども語訳」を作った。8歳と5歳と3歳の3児の父。書き出しは「くにと くにの けんかを せんそうと いいます」だ▼訳したのは、「自由と平和のための京大有志の会」が7月に公表した声明書である。安保関連法案への反対を詩的につづり、幅広い共感を呼んだ。山岡さんは、例えば原文の「戦争は、すぐに制御が効かなくなる」を、「せんそうは はじまると だれにも とめられません」とした▼有志の会に送ると、すぐに会のホームページに掲載された。それに目を留めたのが、絵本作家の塚本やすしさん(50)だ。戦争に関するすべてのことを言い当てていると感じ、「これは絵本にするしかない」と即決した▼参院での採決前に出版したいと考え、3日で絵を仕上げた。戦争の怖さを表現しつつ、残酷になりすぎないよう気をつけたという。企画してから発売までたった40日。「ふつう絵本には緊急出版なんてないんですが」と塚本さんは笑う▼『戦争と平和を見つめる絵本 わたしの「やめて」』はこうして世に出た。山岡さんは広島生まれで親族に被爆者がいる。塚本さんの両親は東京で空襲を経験している。次の世代に平和を引き継ぎたいという2人の思いが、言葉と絵の力に結実した▼作品の最後、大勢の子らが必死の表情で叫ぶ。戦争を始めようとしている人たちに、「やめて」と。
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2015年 09月 18日
講演◆芭蕉と蕪村―その郷愁をめぐって―(大垣市)
はじめに、山口洋子「ふるさと」、室生犀星「小景異情」、陶淵明「帰去来辞」にふれて、郷愁というテーマがいかに古くから繰り返し唱われてきたかを思い起こしてもらった。その上で、故郷に関して、芭蕉・蕪村に本質的な違いがあることを説き、心の反映である作品にも当然それはみてとれるという話をした。
使用した主な資料は「実兄宛芭蕉書簡」「幻住庵記」「実兄宛芭蕉の遺書」、「北寿老仙をいたむ」「春風馬堤曲」「柳女・賀瑞宛蕪村書簡」で、締めくくりに、講話の結論を援護してくれる芭蕉と蕪村の句(むろん秋の句)を味わった。
▶▶実は夕食会をするという誘いにしたがって前泊。夕食会のメンバーは昨年十月に「芭蕉はなぜ旅に出たのか」(企画展関連講座)という話をしに出かけた際に御世話になった人々と、その際に参加させてもらった句会の先生。翌日の講演は午後で、午前中はあいていたから電車でふらりと一人旅。終点の美濃赤坂で下車して法泉寺の芭蕉句碑を見て、美濃国分寺(青野)までは電車がないので、1時間歩いて念願の芭蕉塚を見た。坐骨神経痛の身にこの散歩はしんどかったが、講演会場でもてなされた水饅頭でその疲れもどこかへ。おすすめの茶菓である。
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2015年 09月 17日
戦争の放棄Ⅲ◆Wash my back and I'll wash yours.
独立とは、他者に依存するときは依存して、けっして争わないことである。誰かに教えてほしいのだが、まがりなりにも、それを七十年やってきた国は何もこの島国ばかりではないのではなかろうか。とすれば、戦争放棄とはできない理想でなどなく、持ちこたえている現実なのだ。世界に誇るべきその模範を、みずから捨てようとする為政者の蒙昧を悲しむ。
ところで、国際平和の維持や生活安定のための国際協力をめざしたはずの国際連合はいったい何をしているのか。ものごころがついて以後、学校教育で受けたその理想を、国際連合に感じ取ったことはほとんどない。死に体である、という評価がくだるまえに、大国のエゴを修正する哲学の降誕を心から望んでいる。
そばの花美しければ人貧し 木村 道子
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2015年 08月 15日
戦争の放棄Ⅱ◆霊あらば親か妻子のもとに帰る靖国などにゐる筈はなし 市村 宏(『東遊』)
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2015年 07月 27日
無花果句会7月◆「髪洗ふ」「単帯」の句など
◆当季雑詠
胡瓜もみ二杯の飯をたひらげし
旅心ハマナスの句を口ずさむ
髪洗ふ不機嫌なれば念入りに
◆兼題「夏帯(単帯)」
夏帯やもう過去のこと過去の人
管理職らしき祝辞や単帯
単帯たたむ悔やむな悔やむなよ
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2015年 07月 27日
戦争の放棄Ⅰ◆茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」の「ね」
そして、その時代背景を想像する目的で茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき 」 を朗読して聞かせた。だが、その末尾に改行して据える「ね」だけは胸が詰まって、どうしても声にならないのであった。
わたしもまた、子々孫々のために、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(日本国憲法第9条)という理想を追求する国を尊敬し、こよなく愛する者のひとりである。
わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね ―『茨木のり子詩集』―
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2015年 05月 26日
Lecture◆物付と心付(去来『去来抄〈修行〉』による)
俳諧入門書を読んでも、それぞれ解説には微妙な食い違いがあってわかりにくい、という学生の迷いをはらすために、「物付」と「心付」に関して以下の通り整理する。参考文献に示される通りに説いてもわからないわけだから、踏み込んで意訳を試みる。私の姿勢は「『去来抄』を額面通りに読んでは誤解する」という、東明雅先生の考え方に沿う(東明雅『連句入門』)。
【教訓1】物付は避けよ。心付も前句の句意の全体を踏まえることは避けよ。なぜなら散文に似てしまうから。
《去来抄》付物にて付け、心付にて付くるは、その付けたる道筋知れり。
《口語訳》(付句を)前句のことばの縁や、句意(全体の心持ち)を踏まえて付けると、前句とのつながりが容易にわかってしまうのでよくない。
【教訓2】「映り(移り)」・「匂い」・「響き」は余情であって、付け方ではない。
《去来抄》付物をはなれ、情を引かず付けんには、前句の映り・匂ひ・響きなくしては、いづれの所にてか付かんや。
《口語訳》ことばの縁に因らず、しかも句意を付句にそのまま持ち込まないためには、前句の余情(映り・匂い・響き)をしっかり理解することが肝要。
【教訓3】「心付」は意味や場面を転換することで余情を生む。
《去来抄》蕉門の付句は、前句の情を引き来たるを嫌ふ。ただ、前句はこれいかなる場、いかなる人と、その業、その位をよく見定め、前句を突き放して付くべし。
《口語訳》蕉門では前句の意味や内容にぴったり結びついた心付(句意付)を嫌う。(そうならないために)前句はどんな場面か、どんな人物が描かれたか、つまりその人物の行為(業)や品位(位。人や事物にそなわる気高さや、上品さ)を理解し、その上で句意(意味や内容)と距離をおいた心付をすべきなのだ。(つまり、その結果、前句と付句との間に醸し出される余情を「映り」とか「匂い」とか「響き」と言っているわけだ)。
【教訓4】物付も時には腕前である。
《去来抄》先師曰く「付物にて付くること、当時好まずといへども、付物にて、付けがたからんを、さっぱりと付物にてつけたらんは、また手柄なるべし」。
《口語訳》但し芭蕉は次のようにも言った。「今日、ことばの縁で付ける方法は好まれないが、それでも付句がむずかしいときなどに、あっさりとことばの縁で付けるという場合はあって、これはこれで技量の一つといってよい」。
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2015年 05月 12日
S子の三十三回忌◆般若心経朗誦
S子が大学の教員になったのは二十九歳ときわめて早かった。そしてその初年度の業務を終えて、新年度を迎えた四月に病没。つまり享年二十九であった。残された者たちに、この四月で三十二年の歳月が流れたことになる。
御両親から手紙をもらった。娘の短い生涯を思うとき、一緒に勉強をしていた友達を抜きにして偲ぶことはむずかしい。忙しいとは思うが、町役場前の停留所まで迎えに出るから、仏前に顔をみせてくれという。三十三回忌といえば忌あげである。先生が御存命であれば、必ず墓前にお参りしたにちがいないと、新幹線に乗った。
S子は親の勧めに従って郷里の商業高校へ進学。卒業後は近隣の銀行に勤めて、良縁にもめぐまれ、平穏な家庭を築いてほしいというのが親の希望であった。しかし、その高校で受けた国語の授業で、古典の魅力にめざめ、高卒後は大学に進学して国文学を学びたいと言い出した。親は経済的な理由をあげて引き留めるのだが、夜学を選んで自活するといって説得し東京へ出た。ボクらの時代に珍しくはない学生像だが、初心を見失うことがなかった点で、S子は大いなる刺激であった。
法事はまず自宅において行なわれ、ボクらは住職に導かれつつ全員で般若心経を朗誦した。
すなわち、私とは、私の身体を構成する感覚や思考という集合体が反応した生理的な機能である。存在がそのように実体のない複数の集合の機能である以上、自我だの個我だの利己だのというものは幻であって実在しない。逆にいえば、そのようなカタチで存在することを空といい、それに対する執着を捨てさせてくれるのが智恵であるということを、自らに言い聞かせた。
法要はそれから寺へと出向き、さらに墓前にお参りして御斎となった。三十三回忌とは、初対面の縁者の人々と、時折笑いながら思い出を語ることのできる時間であった。
春風におされて背筋伸ばすなり
行く春の三十三回忌を修す
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2015年 05月 11日
Tweetの限界◆谷地海紅氏の限界始末
わかったことは以下の通りです。
1)当事者は『後拾遺和歌集』に高い見識のある方らしいこと。
2)当事者には、そのお仲間から本件「iPhone debut◆谷地海紅氏の限界」の内容が伝えられたらしく、五月七日のツイートに「私はその方をよく存じ上げているわけではないので、2013年のその日、TLにその方のエッセイへのリンクか何かが示されて、それへの感想を書いたのではなかったかと思う。よく覚えていないが」とあり、文中「その方」とはボクのことらしいこと。
3)Twitterとは同名の会社(本社カリフォルニア)が運営する、Web上の情報サービスで、そこでは独特のゆるやかな人間関係(よく理解できないが……)を結ぶ人々が、140文字以内で投稿しあい、いま起きているできごとを、さまざまな角度から考えることに役立てているということ。
4)Twitterの情報が流れるベルトコンベアのような運動体をタイムライン(TLと略すのだそうだ)ということ。
5)Twitterは必ずしも求めるものを絞り込んだり、深めたりする運動体ではないこと。
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2015年 05月 04日
iPhone debut◆谷地海紅氏の限界
けふのみの春を歩いて仕舞けり 蕪村(句集217)
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2015年 04月 27日
春宵一刻◆テイスティンググラス
春宵の盃を措くこと勿れ 高野素十
→蘇軾の七絶「春夜」は以下の通り。春宵一刻値千金 花に淸香有り月に陰有り 歌管樓臺聲細々 鞦韆院落夜沈々
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2015年 04月 27日
行く春◆水戸の焼酎「一人笑」「二人笑」「三人笑」
湖に鳰のちひさき暮春かな 金田けんじ
行春や帰国の望みなく妻と 相田 苔蘆
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2015年 04月 07日
俳句会の誕生◆芭蕉会議も連れてこい!
昨年の十一月二十九日(土)と十二月六日(土)の二日間、日立のとある生涯学習センターから県民大学講座の依頼があって、「たしなみとしての俳句 ―心あたりのある風景―」という全十時間のカリキュラムの講師をした。企画担当のkunikoさんから、「東日本大震災後の県民に日本文化のおもしろさに気づく機会を提供して、生き生きと前向きに、生活に張りが出るような手伝いをしたい」、「俳諧の歴史や先人の作品の味わい方、楽しみ方を学んで、自ら俳句を作る生活に結びつく話をしてほしい」と説き伏せられた。
俳諧の歴史を講じるのが主目的なら、すぐれた研究者を紹介できると思い、固辞もしたが、「俳句を作る暮らしを身につけて、震災後の生活に元気を取り戻したい」と言われると断れなくなった。俳句を作る愉しみを伝えるのが最終的な目的なら、実作と研究の双方に足を突っ込んできた、ボクの仕事かもしれないと思い上ったのだろう。
実は、引き受けた理由はもうひとつある。二十代から三十代にかけてお世話になった人々が住んでいる、あるいは住んでいた常磐線に乗って、その昔を一人でしみじみと思い出す時間をもちたい。すっかり御無沙汰しているけれど、この県民大学講座の案内をどこかで目にして、「アイツガ来ルナラ、ヒトツ聞キニ行ッテヤルカ」といって会いに来てくれる朋友がいるかもしれないと、ひそかに期待したのである。
はたして二人の旧知と再会し、この講座からひとつの句会が誕生した。「たしなみ句会」という。十王パノラマ公園と、日本でただ一つの鵜捕り場のある鵜の岬を交互に隔月で吟行しているから、芭蕉会議のメンバーも連れて来いという。
この講座を引き受けてよかったと思う。
この村の蜷も田螺も素十恋ふ 村松 紅花
街に東風吹きそめ嫁ぐ日もきまり 石井 双刀
駅守る花見句会をあきらめて 戸井田 厚
残る鴨おほかた太り過ぎと見し 戸井田和子
若鮎も山女魚も育ちゐる闇か 小川背泳子
死してなほ翅に風ある蝶々かな 小沼 道子
燕は巣作り校長忙しき 鷺 孝童
一祝あり沼燕ひるがへり 鷺 くら
2015年 03月 30日
「心ない」と「罪がない」◆上野市駅前芭蕉像の顛末
先日、AIさんがこの事件の顛末がサイトに出ていますよと教えてくれた(伊賀タウン情報ユー・サンスポ電子新聞)。それによれば「芭蕉像のつえ誤って壊」したのは「土木作業員の少年」ということである。
すなわち「昨年5月10日の午後11時ごろ」、当時16歳の少年がイタズラで台座に登って、バランスを崩して杖につかまった際に折れた。平成27年2月27日決着。知らせを受けるまで、なにも知らなかった母親は謝罪の上「修復費用34万5600円を支払った」という。
イタズラは思いのほか高くついたわけだが、このような失態の一つや二つは誰にも、つまりボクにもあるなあと思って寒気がした。少年も母親も、この失敗を何十年も引きずるのかと思うと気の毒な気もする。「心ないワザ」は、ときどき「罪のないワザ」に端を発したものだから。
2015年 03月 03日
この人の一篇◆ブナ原生林 椎名美知子
篠突く雨
清冽な一筋のながれになって
ブナの木肌を急ぎ急ぎつたう
腐葉土はたちまち水をはらみ
つやつやとブナの若木
林のすべてが語り始めた
低地の沼では
妖精たちの舞い
霊気が他者の介入をはばむ
時雨が去って
林は微笑みとなって香り立つ
喧騒と宴の後に来るもの
育みやがて朽ち
次代に受け継がれ
ブナの高みの果ての碧
一時の青も永遠の青も同じかもしれない
▶▶詩誌『沙漠』№276(平成26年12月)所載。発行者は平田真寿(〒802-0074北九州市小倉北区白銀2丁目1-5-302)。この詩を読んで、昨夏の旅で佇んだ「美人林」(ビジンバヤシ。十日町市松之山)を思い出した。変な名前なので、たどり着くまで想像できなかったが、丘陵に生い茂る樹齢約90年ほどのブナの群生地であった。驟雨と呼ぶには激しく長すぎる雨で、同行の多くはバスで雨止みをしたが、ボクは携行した小さな折りたたみ傘をひろげて、雨がせせらいで下る坂を登り、林間の沼を見下ろせるところで、キノコのように屈み込んだ。そして傘をはみ出た雨に下半身を濡らしながら、「腐葉土はたちまち水をはらみ」「林のすべてが語り始め」る声を聞き、「育みやがて朽ち」ゆく時間を思い、「一時の青も永遠の青も」同じであると感じていた気がする。2014年 09月 12日付の「湯呑みの素十句◆家持のゆかりのいで湯薄月夜 素十」というブログで書いた卒業生との旅のひとこまである。
2015年 03月 02日
初めての連句◆「焚くほどは」脇起こし連句(一巡) 平26年度俳諧ゼミ
焚くほどは風がもてくる落葉かな 良寛
のど風邪治り戻る教室 波平
講義など聴く者はなし雪降りて 萌
ムサシと呼べば走り来る犬 由希菜
月天心晴れて居酒屋開業す 佳奈
秋刀魚枝豆だし巻きが好き 純平
萩揺るるコート出さうか出すまいか 北斗
兄弟二人舞浜にあり 真也
センター・オブ・ジ・アースやばいやばいよな 七海
野球すなはち青春と言ふ 莉沙子
タイガース契約を機に婚約す 小百合
大安売りのまづいタコ焼き 竜
寝そべれば波音近し夏の月 幹大
母の笑顔に似たる向日葵 恵祐
スーパーのバイト一年ちよつとして 大輔
卒業の日に引つ越しをする 淑恵
友人の故郷に来て花明かり 智美
枕に聞くや春の川音 祐也
朝食に摘んだばかりの蕗のたう 岳
→平成26年度俳諧ゼミ恒例の「初めての連句」。良寛の句を立句に一巡。連衆は関口波平・金子萌・小川由希菜・原賀佳奈・山本純平・神谷北斗・中村真也・豊田七海・矢郷莉沙子・今崎小百合・浅野竜・高田幹大・澁澤恵祐・中田大輔・柴淑恵・山田智美・小林祐也・高橋岳の18名。
2015年 01月 01日
謹賀新年
平成二十七年 歳旦
妹 の 順 番 が く る 初 鏡 海 紅
2014年 12月 18日
ある人に◆オリオンの辺りにぎやかなる師走 海紅
送られつ別れつ果は木曽の秋(芭蕉・更科紀行)
草いろいろおのおの花の手柄かな(芭蕉・笈日記)
→『古今集』(巻四・秋歌上)の「題知らず」「よみ人知らず」に「みどりなるひとつ草とぞ春は見し秋はいろいろの花にぞありける」「ももくさの花のひもとく秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ」「月草に衣は摺らむ朝露にぬれてののちはうつろひぬとも」の三首が並ぶ。忙しく立ち働いたので、今年の秋の記憶は格別で、そして迎えた冬はいつも以上にさびしい。しかし、見上げる十二月のオリオンのあたりの星々が、明るく賑やかなのことには慰められる。Sさんも、Gさんもきっとあのあたりにいる。
2014年 11月 25日
ある人に◆逝くものはすべて水の如し
十 有 三 春 秋
逝 者 已 如 水
天 地 無 始 終
人 生 有 生 死
安 得 類 古 人
千 載 列 青 史
→『頼山陽詩選』(揖斐高注 岩波文庫 平14)。「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」(『論語』子罕)。「天地終極無く、人命朝霜の若し」(曹植「応氏を送る」)。
2014年 10月 24日
ひとり旅◆伊賀市柘植町の芭蕉
【行程】上野公園ロータリー(上野城入口)→伊賀市役所→赤坂(芭蕉生家)→西明寺→上野車坂町→中瀬IC(名阪高速道、亀山・名古屋方面)→柘植IC(名阪高速道を下りる)→芭蕉翁生誕跡地(福地一族を祖とする)→萬寿寺(旧長福寺、福地・松尾家菩提寺)→芭蕉公園(福地城址)→帰途
2014年 10月 24日
白山句会◆神保町界隈
ボクは喫茶「さぼうる」の季節はずれの釣忍を眺めて学生時代を忍び、古書店を一二覗いて、駿台下に立ち止まっているeiさんに声をかけて、ひとり錦華小学校(現区立お茶の水小)に歩を進め、「明治十一年 夏目漱石/錦華に学ぶ」という碑を仰ぎ、漱石先生を同道して歩くことにした。錦華公園で、明大生と思われる二人の素人漫才の稽古を愉しみ、末枯と薄紅葉に憩い、錦華坂を下りて、遠くに笠間書院の看板をしみじみとながめて、句会場の「なにわ」さんに向かう。このあたりはよく歩く地域だが、いつもひとりだから飲食店に立ち寄ることは少ない。でも「なにわ」はふらりと腰を掛けられるお店のように思えた。翌日は日帰りで伊賀に行くので、さっさと帰途に就けばよいものをものを、例によっていつまでも秋の夜風にさまよう。神保町は裏切らない、まことに奥が深い。
古書店があれば歩をとめ秋の風
薄紅葉淋しくなりて腰を上ぐ
薄紅葉淋しと言ひて又歩く
末枯といふたまさかに揺るるもの
末枯の又うなづいてくれにけり
又逢へた又逢へた草紅葉行く
2014年 10月 09日
見し秋を何に残さん3◆十五夜、十三夜そして月食
鉦叩聴いてをりしが寝付きたる 海紅
2014年 10月 04日
Requiem◆江田浩司歌集『逝きし者のやうに』
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ
あをぞらを自在に飛べる雪片のきよき墓標をなさむ紅花忌
北寿老仙をいたみて啼ける雉子なり師の学恩に報はざる身も
▶▶江田浩司歌集『逝きし者のやうに』の「村松友次先生を哀悼する」という章から。本書は平成26年(2014)9月、北冬社刊。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・多田智満子・村松友次・荒川修作・中川幸夫その他、作者の精神史を支えた古人を追悼する。その中に実父、そして与謝蕪村を含む。なお仮に歌集と紹介したが、集中に俳句2句、詩1篇があり。
2014年 09月 30日
浅酌◆酒席で母を語らず
秋蚕見に行つてなかなか戻らざる 前島夢人
2014年 09月 29日
見し秋を何に残さん2◆「秋の暮れ」の文学史
一方和歌では〈美しくも淋しい〉の〈淋しい〉世界が強調され、たとえば「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」(良暹・後拾遺・秋)はひとりぽっちである(仏道修行の)淋しさと、景色の淋しさの二つを同一視。「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮・新古今 ・秋)は常緑樹の槙の山を見ても癒やされない、つまり色(景色)ではなく境地(心境)としての淋しさ。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行・新古今・秋)は鴫が音を立てて沢を飛び立つさまから、出家者にもあるしみじみする心の表明。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(定家・新古今・秋)は苫葺きの小屋が点在するだけの海辺の景色から、この賞美するもののない世界こそ秋の夕暮れという展開を見せる。こうして「秋の夕暮れ」は古びて閑寂な味わい、つまり「さび」の世界を描く時空となってゆく。
ちなみに、「秋」の本意は「四季で一番素敵な季節→秋は過ぎ去るもの、悲しいもの→人生や恋の過ぎ去ることを惜しむもの→〈深まり〉の象徴」というふうに変化してゆく。それを例歌で示せば「春はただ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる(不知・拾遺・雑)→おほかたの秋来るからに我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ(不知・古今・秋)→秋風の吹きと吹きぬる武蔵野のなべて草葉の色変はりけり(不知・古今・恋)→鳰の海や月の光の移ろへば波の花にも秋は見えけり(家隆・新古今・秋)」となろうか。
2014年 09月 29日
ひとり歩き◆市川雅彦日本画作品展から無花果句会へ
丸ノ内線の銀座を地上に出て中央通りを歩き、まず六丁目の菊水に立ち寄る。折れてしまったブライアのマウスピースを取り替えてもらうのだ。
それから一本ウラの金春通りを新橋方向へ歩く。Gallery美庵は江戸指物の平つかビルの五階だった。エレベータで男性と一緒になる。それが市川雅彦氏であることはすぐにわかった。弟君と懇意にしているからである。
画はすべてカッパドキア(トルコ)をモチーフにして、人は見当たらないが、画布全体の色彩にあたたかな人の暮らしを縫い込んであるという印象。むかし子どもに読み聞かせたムーミン、中国で目にした似たような住居を思い出した。恥ずかしながら、思い出したことをそのまま市川氏に話した。芝居・音楽・絵画などで、絵の話題がもっとも苦手なのである。
どれも抱えて持ち帰れそうな親しみを覚えつつ、絵は一部屋に一枚で十分だなと思った。可愛らしいギャラリーに十数部屋分の絵がところ狭しと並んでいたのだ。
高速道の下をくぐり、外堀通りの四つ角にある宮越屋で珈琲を飲んでから句会へと向かった。宮越屋は札幌が本店の濃い珈琲の店である。御嶽山噴火のことは帰宅後に聞かされた。
露を見るやうになりしはこの句以後
朝顔を這はせて道をせばめ住む
秋の日の置き忘れたる本ぬくし
どうしても似て来るおかめ南瓜かな
南瓜飯家族がそろふこと嬉し
2014年 09月 23日
真贋は内容(読解)によるべし◆俳文学会東京研究例会(9月)
2014年 09月 22日
見し秋を何に残さん1◆貫之
なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るが悲しさ
といひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかがあらむ。かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。唐土もここも、思ふことにたへぬときのわざとか。今宵、鵜殿といふところに泊る。(貫之・土佐日記・二月九日)
→詩ハ志ノ之ク所、心ニ在ルヲ志トナシ、言ニ発ハルルヲ詩ト為ス。情中ニ動キテ言ニ形ハル。之ヲ言フニ足ラズ、故ニ之ヲ嗟歎ス、之ヲ嗟歎スルニ足ラズ、故ニ之ヲ詠歎ス(毛詩・序)
▶▶『毛詩(詩経)』「序(国風序)」。心に思うことが韻文の形式通して詩となり、韻文のかたちにできない人の心をとらえる。そしてその詩に満足できないとき、人は歌い始める。